空海(平安時代)

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<出典:wikipedia

空海(くうかい) 774年~835年

 

774年。

空海は香川県の豪族のもとに生まれます。

小さいころは真魚(まお)という名前でした。

成長し、役人になろうと考えた空海は、都に出て大学に入ります。

このころの大学は役人の養成機関で、位の高い者の子どものみ入学を許されていました。

 

空海は大学で学問を学ぶうちに、
「儒学は出世のためだけにあり、実際に人々を救うのは仏教である」
と考えるようになります。

そして、仏教が儒学などより優れていることを説き、自分が仏教の道に入った理由を記した「三教指帰」を作りました。

その後、空海は大学を辞めてになる決心をしました。

このとき空海は24歳でした。

 

空海が真言宗を開く

僧になった空海。

毎日、厳しい修行と学問に明け暮れます。

そして、より深く仏教を学ぶため、804年に最澄と同じ遣唐船に乗って中国(唐)へ行きました。

 

中国の都・長安に入った空海は、青竜寺の優れた僧である恵果(けいか)に会い、教えを受けることにします。

恵果は空海を一目見て、
「あなたこそが私の教えを伝える人です」
といって喜んだといいます。

 

恵果から真言密教の教えを全て学んだ空海は、2年後の806年に帰国。

日本で真言宗を開き、神秘的な祈りで密教の教えを広めます。

「信仰により誰でも救われ、生きたまま仏の境地に近づける」
と説いた空海の教えは多くの人々に受け入れられました。

 

やがて空海は嵯峨天皇にも認められ、その保護を受けるようになります。

816年。

空海は和歌山県の高野山に金剛峰寺を建て、そこを修行の場に!!

さらに平安京の東寺を与えられると、そこを教王護国寺としました。




人々に慕われた空海

空海の故郷である讃岐国。

ここには大きな川がなかったため、ため池から水を引いて農業をしていました。

しかし、その中で最も大きい満濃池が壊れてしまいます。

これを直すために改修工事が行われますが、なかなか進みません。

そこに空海があらわれます。

空海は人々の協力を得ると、わずか3ヶ月で工事を完成させてしまいました。

 

828年。

空海は綜芸種智院という学校を都に建設。

一般の人々に仏教や儒学を教えました。

 

空海は、文化の面でも優れていました。

漢詩では「性霊集」という漢詩文集を出しており、この時代の三大書道家の一人にも数えられていました。

 

835年。

人々に慕われた空海は、高野山で息を引き取ります。

そしてその後、朝廷から「弘法大使」の名を送られました。