第13~14代天皇 成務天皇~仲哀天皇

Seimu-tenno

<出典:wikipedia

第13代天皇

 成務天皇 せいむてんのう (84年~190年)

 

成務天皇は、景行天皇の第四子であり、日本武尊(やまとたけるのみこと)の異母弟です。

資料では、在位60年で、107歳で没したと書かれていますが信憑性が低いです。

もし、実在していたのなら、4世紀中ごろの人物ではないかとも考えられています。

 

景行天皇の時代から、ヤマト政権は国内の統一事業が飛躍的に進みました。

そのため、この時期は中央の組織作り地方の支配体制を整えることが急務。

しかし、領土が広くなったため天皇ひとりでは管理しきれません。

そこで、成務天皇は、武内宿禰(たけうちすくね)を大臣にして国政にあたらせます。

武内宿禰は、初期のヤマト政権の重鎮として活躍。

なんと、230~280歳まで生きて多くの実績を残したという伝説があります。

しかし、200歳以上というのは現実的ではないため、実際は複数の人間の実績を『古事記』『日本書紀』編纂者がまとめ上げて、一人の人物として書いたと考えられます。


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<出典:wikipedia

第14代天皇

 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう (~200年)

 

仲哀天皇は、日本武尊の第二子で、神功皇后の夫として有名です。

『日本書紀』では、誕生年を148年としていますが、日本武尊がその36年前に死んでいるためつじつまが合わず、実在に疑いの声も上がっています。

実在していたとすれば4世紀後半だとも考えられています。

 

仲哀天皇の后であった神功皇后は、気長宿禰王(おきながすくねのおおきみ)の娘。

卑弥呼のことではないかという説が有力です。

 

仲哀天皇の時代。

先代に続いて、都は滋賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に構えていました。

 

ある日。

武内宿禰と国内統一について協議していた時。

神功皇后が突然神がかり、天皇に進言します。

「熊襲征伐よりも、新羅を先に打て」と。

しかし、これを信じなかった仲哀天皇は、病気にかかり死んでしまいます。

残された神功皇后は武内宿禰とともに、神の言葉に従って対馬を出発。

途中、風の神、海の神、魚の助けを借りて新羅(しらぎ)へ到着します。

船団が起こす波で新羅が水浸しになったため新羅王は降伏し、これを知った高句麗王、百済王も降伏。

神功皇后は戦うことなく朝鮮の3ヶ国を服属させた、という話があります。

 

しかし、話が現実的ではなく、ヤマトがこの時期に3ヶ国を屈服させるだけの力があったとは思えないので、事実とは異なる可能性が高いです。