第77代天皇 後白河天皇

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<出典:wikipedia

第77代天皇

後白河天皇 ごしらかわてんのう
(1127年~1192年)

 

 

1127年。

後白河天皇は、鳥羽天皇と藤原璋氏とのあいだに誕生。

名を、雅仁(まさひと)といいました。

 

後白河天皇は若いころ、遊興に明け暮れ一晩中歌い明かすことも珍しくありませんでした。

こうした様子を見ていた鳥羽法皇

「天皇の器ではない」と考え、守仁親王(もりひと)へ天皇の位を譲位しようと考えていました。

 

ところが、1155年。

近衛天皇が亡くなると、鳥羽法皇は後白河天皇(雅仁親王)を即位させます。

亡くなった近衛天皇に子供がいなかったことと、守仁親王(二条天皇)という後継者がいたため、後白河天皇は中継ぎ的な役割で即位することとなったのです。

 

1156年。

鳥羽法皇が亡くなります。

すると崇徳上皇のもとに源為義(ためよし)・為朝(ためとも)の親子がやってきます。

さらに、平忠正や各地の武士も終結。

これに対して、後白河天皇の側近だった信西(しんぜい)は平清盛や源頼朝といった武士を集め、皇位争いに備えます。

両陣営、緊張が高まる中、後白河天皇側が夜襲を仕掛けます。

不意を突かれた崇徳上皇側は大混乱。

こうして政権をめぐる争い“保元の乱”は後白河天皇の勝利に終わります。

 

争いに勝利し、天皇の座を守った後白河天皇。

2年後に予定通り、息子の守仁親王(二条天皇)に皇位を譲ります。

しかし、上皇となった後白河天皇(後白河上皇)院政を開始。

二条天皇としばしば対立することになります。

 

1165年。

二条天皇が退位して、2歳の六条天皇が即位すると、後白河上皇による本格的な院政がはじまります。

1169年。

後白河上皇は出家して法皇になります。




武士の台頭と天皇の権威

平治の乱に勝利して権力が強くなった平清盛と後白河法皇は、協調体制を取っていました。

しかし、政治路線の違いから、徐々に軋轢が生じてきます。

加えて、後白河法皇が寵愛していた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)が亡くなると、両者の関係は悪化。

後白河法皇は、平氏打倒の謀議を行うなどして、平清盛をけん制します。

 

これに耐えかねた平清盛。

1179年に後白河法皇を幽閉。

院政を停止させます。

1181年。

平清盛が亡くなると、再び後白河法皇が院政を開始。

木曽義仲源義経を誘導して、武家勢力に対抗します。

 

武士の力で平氏を滅亡させた後白河法皇。

今度は源義経に源頼朝追討の命令を出します。

しかし、これが上手くいかないと分かると、今度は源頼朝に源義経追討の命令を下します。

 

貴族の世から武士の世へ。

時代が大きく変動する中、皇室の権威を守るために奔走し続け、1192年。

後白河法皇は66歳で亡くなりました。