第52代天皇 嵯峨天皇

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<出典:wikipedia

第52代天皇
 嵯峨天皇 さがてんのう
(786年~842年)

786年。
嵯峨天皇は、桓武天皇と藤原乙牟漏皇后のあいだに生まれました。

806年に兄・平城天皇の皇太子となり、809年。
平城天皇の病状が悪化したため、天皇を譲り受け第52代天皇となりました。
しかし、同年。
平城天皇(上皇)の体調が回復しました。
すると、平城天皇は上皇として政令を乱発。
上皇と天皇の対立関係が生まれました。

平城上皇はさらに都を平城京へ移そうとしました。
これに怒った嵯峨天皇は、平成天皇を追い詰め出家させました。(薬子の変)

「薬子の変」では、平城上皇に計画性がなく人心が離れたため、嵯峨天皇の勝利に終わりました。
しかし嵯峨天皇にも反省点はありました。
嵯峨天皇の動きが平城上皇に筒抜けだったのです。
内裏で天皇と官人を取り次ぐのは尚侍(ないしのかみ)
この役職を平城上皇側の人間・藤原薬子が担っていたのです。
そのため、重要な情報がすべて漏れていました。
そこで、嵯峨天皇は機密を守るため、新たに蔵人頭(くろうどのとう)を設置。
巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣(ふゆつぐ)らを採用しました。

こうして、天皇と太政官の連絡や事務処理を、信用できる人物に任せることになりました。

嵯峨天皇の政策

嵯峨天皇は都の治安を守るため、検非遣使(けびいし)も設置しました。
検非遣使には、警察や裁判所の役割を与えました。
これは律令に規定されていない役職でしたが、必要に応じて例外の役職を作ることが可能になりました。

さらにこの時期、律令制度の矛盾が次々と見つかりました。
そこで嵯峨天皇は格式を再編成して、「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」を作り上げました。
これにより、律令に基づきながらも現状に合わせた政治ができるようになりました。

823年。
公営田(くえいでん)を設置。
農民を雇用し、食料を与えて、国家所有の田を耕作させました。

その後、上皇となった嵯峨天皇(上皇)はさらに政治を運営。
抜群のリーダーシップで30年もの間、政治を運営しました。

ちなみに、嵯峨天皇は書の達人としても知られ、橘逸勢(たちばなのはやなり)、空海とともに「三筆」として称えられていました。