<出典:wikipedia>
足利義政 あしかがよしまさ (1436~1490)
1436年。
足利義政は室町幕府6代目将軍の足利義教(よしのり)の子として生まれました。
義政が小さい頃。
父が兵庫県の守護大名に殺されてしまいます。
そのため、兄が将軍になりますが、2年後に病死。
わずか14歳で、義政が8代目将軍となります。
1456年。
義政は貴族の日野家から、日野富子を妻に迎えます。
妻になった富子は政治に口をだすようになり、幕府内でも守護大名の勢力争いが活発になります。
このような状況に、政治に対する熱意をなくした義政。
能を見たり宴会をしたりして、遊んで暮らすようになります。
当時、各地で飢饉がおこって生活に苦しむ人が増えていましたが、それもお構いなしでした。
1464年。
男の子が生まれなかった義政は、弟の義視(よしみ)を跡継ぎに決めます。
しかし、翌年。
富子が義尚(よしひさ)を生んだため、両者で対立が生じます。
富子は義尚を将軍にするため、山名持豊(やまなもちとよ)に協力を要請。
すると、義視はそれに対抗するため、細川勝元を頼ります。
同じころ、有力守護大名の畠山と斯波(しば)の両家でも争いが起こっており、これも巻き込んで争いが大きくなっていきます。
1467年。
細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)の戦いが始まります。(応仁の乱)
各地の守護大名もこれに参戦。
京都を中心に戦いが続きます。
約11年間!!
争いが続きますが決着はつかず、幕府や大名は疲弊。
京都は焼け野原となってしまいます。
東山文化!足利義政が発展させた日本の美
1473年。
応仁の乱による争いが続く中、義政は将軍職を子どもの義尚に譲り、自分は東山の別荘に移り住んでしまいました。
義政は、東山に優れた才能を持っている人々を集めると、毎日、趣味を楽しんで生活。
政治に全く関わらなくなります。
ただ、義政は美的センスが抜群でした。
茶の湯や能、水墨画など簡素で上品な文化を発展させ、”わび・さび”など非常に日本らしい感性の基礎を作り上げました。
しばらくして、義政は東山の別荘に銀閣寺を作りはじめます。
1階は書院造。
2階は禅宗の仏殿様式を取り入れたもので、東山文化を代表する建物となりました。
しかし、義政自身は1490年に亡くなってしまい、完成を見ることはありませんでした。