<出典:wikipedia>
北条時宗(ほうじょうときむね) 1251年~1284年
1251年。
北条時宗は、鎌倉幕府5代目執権である北条時頼の子どもとして生まれました。
小さいころは相模太郎と呼ばれ、父の後をついで執権となることが決まっていました。
1268年。
時宗は18歳で執権になり、政権を握りました。
また、この時期にモンゴルから使者がやってきます。
アジアからヨーロッパに渡る大帝国モンゴルが日本を従えようとして使者を送ってきたのです。
幕府はこれを無視。
すると、1271年。
モンゴルは国名を「元」に改めて、日本に再び使いを送ってきました。
しかし、北条時宗はこれも無視。
返事をしませんでした。
加えて、御家人を北九州に送って戦いの準備を命じました。
元寇!幕府軍が辛くも勝利
1274年。
元軍(中国軍)2万に加えて、高麗軍(朝鮮軍)1万数千、900隻の船の軍隊が北九州に攻めてきました。
日本軍は中国の戦法に大苦戦。
・ “てつはう”という火薬で馬の制御ができない
・ 集団戦法により”名乗り”の間に殺されてしまう
日本は奮闘しますが、結局大宰府まで後退します。
しかし、ここで運よく暴風雨が発生。
元の船がほとんど難破したため、元軍は引き上げていきました。
元が引き上げた後、時宗は次の襲来に備えます。
博多湾の沿岸には石の砦を作り、九州に領地を持っている御家人には沿岸を守るように命令。
一方、中国の宋を滅ぼした元は、1281年。
14万の大軍で、ふたたび北九州に攻めてきます。
しかし、今度は幕府が入念に準備していたため、なかなか上陸できません。
しかも、季節は秋。
1ヶ月も船にいたため、またも暴風雨の被害に遭います。
こうして、またも暴風雨で壊滅状態に陥った元軍は撤退していきます。
2度にわたる元の襲来(元寇)に勝利した鎌倉幕府。
北条時宗は3度目の襲来にも備えますが、3度目は元の国内事情が悪化したため日本に来ることはありませんでした。
元寇が終わった後。
北条時宗は、円覚寺も建設しました。
目的は、元寇で戦死した味方や敵の霊をなぐさめるため。
そして、1284年。
元寇で疲れ果てた時宗は、急死。
日本を守って生涯に幕を閉じました。