<出典:wikipedia>
源 義経(みなもとの よしつね) 1159年~1189年
1159年。
平治の乱が起こった年に、源義経は生まれます。
父である源義朝はこの乱で敗れて殺され、生まれたばかりの義経は母とともに平清盛に捕えられ、京都の鞍馬寺へ送られてしまいます。
義経は鞍馬寺で修行。
小さいころは牛若丸と呼ばれました。
しばらくして、自分が源氏の子であると知った義経。
平氏を討つ決心をします。
16歳になると、義経は奥州の藤原秀衡のもとへ。
平氏を討つ機会をじっくり待ちます。
1180年。
兄の源頼朝が兵をあげます。
義経は、富士川の戦いに勝利した頼朝と黄瀬川で対面。
はじめて兄弟で顔を合わせ、ともに平氏を倒すことを誓います。
打倒平氏。義経が大活躍!!
長野県の木曽で兵をあげた源義仲は京都へ攻め上り平氏を破ります。
しかし、義仲の兵は乱暴で、これに困った後白河法皇は頼朝に討伐を命じます。
1184年。
頼朝の命をうけた義経は、義仲軍を討伐。
ついで、兵庫県の一ノ谷、香川県の屋島と平氏を追っていきます。
険しい裏山から馬でかけたり、敵の背後から奇襲するなどして、平氏をどんどん西へと追いやっていきます。
そして、山口県の壇ノ浦。
500隻の船で待ち構える平氏に、義経が戦いを仕掛けます。
義経は潮の流れを上手く操ると、次々に平氏を破りついに滅亡させます。
頼朝に追われ最期を迎える
一ノ谷の戦いのあと、義経は都の警察という役職をもらいます。
しかし、兄の頼朝の許可を得ていなかったため、頼朝は快く思いませんでした。
壇ノ浦の戦いで勝利した義経は、朝廷から役職をもらったことについて弁解。
しかし、頼朝は許しませんでした。
許さなかった理由ははっきりと分かっていませんが、
・義経が朝廷側につき脅威になるため
・武士の勢力を2つに分けようとする計画に乗せられたため
などであると考えられています。
義経を許さなかった頼朝。
義経が鎌倉へ入ることを拒否します。
こうして義経は、頼朝に反抗することを決心。
奥州の藤原秀衡のもとで身を隠して生活します。
しかし、秀衡が亡くなると、その子である泰衡が頼朝を恐れて裏切り。
義経に攻め入ります。
1189年。
家来の弁慶が戦い続ける中、覚悟を決めた義経は衣川館(ころもがわのたて)で自殺しました。