<出典:wikipedia>
聖武天皇 (しょうむてんのう) 701年~756年
701年。
聖武天皇は文武天皇の皇子として生まれ、首皇子(おびとのおうじ)と名付けられます。
母は、藤原不比等の娘。
このころは、藤原氏が巨大な勢力をほこっていたのです。
聖武天皇は、一流の学者たちから教育を受け、724年に元正天皇から位を受け継ぎます。
聖武天皇が即位したころ。
飢饉や疫病も流行していました。
疫病の勢いはすさまじく、力を持っていた藤原不比等の4人の子どもも、天然痘の流行で亡くなってしまいます。
農民の生活も飢饉や疫病に苦しめられますが、それに加えて重い税負担がありました。
ちなみに、当時、鉄の農具が普及しはじめ農業が進歩していました。
藤原不比等の子が亡くなると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が吉備真備(きびのまきび)と登用して政治を開始。
しかし、貴族のあいだで勢力争いが活発になります。
740年。
藤原広嗣(ひろつぐ)が、吉備真備を追放するために挙兵。
この事件で聖武天皇は大きな不安を持ちます。
そして、疫病や反乱の不安から、都を京都→大阪→滋賀と移していきますが、結局もとの平城京へと戻します。
国分寺と大仏をつくる
聖武天皇は仏教をあつく信仰していました。
妃の光明皇后とともに、仏教の力で不安を取り除き、国を守ろうと考えます。
741年。
各地に国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てることを命じ、都には東大寺を建設。
さらに743年。
国の安泰を願って、東大寺に金銅の大仏をつくることにします。
このとき聖武天皇は人々にこう話します。
「国中の銅をすべて使って大仏を作り、さらに大きな山の木を全て切ってでも仏殿を作りたいと思う。
・・・・
一枝の草でも、一握りの土でもいい。
大仏づくりに協力しようとするものは喜んで受け入れよう。」
聖武天皇は“命令”という形ではなく、人々の心にうったえかけたのです。
しかし、大仏の工事は簡単ではありません。
そこで、人々に敬われていた行基(ぎょうき)の協力を得て、多くの人手を集めることに成功します。
752年。
大工事のすえについに大仏が完成。
作りはじめてからすでに10年近くの年月が経っていました。
その4年後。
聖武天皇(上皇)は、生涯に幕を閉じます。