<出典:wikipedia>
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) 701年~770年
701年。
阿倍仲麻呂は奈良県の貴族の家に生まれます。
15歳のときに留学生に推薦されると、翌年、吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)とともに中国(唐)へ渡りました。
当時の中国では玄宗皇帝が即位し、安定した政治を行っていました。
都の長安についた阿倍仲麻呂は、法律、文学、儒学など様々な学問を学び、優れた成績を残します。
科挙(かきょ)と呼ばれる役人になるための試験にも合格。
この試験は、食料と寝具を持参して連続30時間試験するという、中国の人でもなかなか合格できない難しいものでした。
役人になった仲麻呂は、名前も中国風の朝衡(ちょうこう)と改めます。
しばらくすると、玄宗皇帝に認められ、どんどん高い位へと移っていきます。
733年。
日本から遣唐使がきたときに、仲麻呂は一緒に帰国しようとします。
しかし、玄宗皇帝はそれを許しませんでした。
そこで、日本からきた留学生の世話をすることにします。
このとき、唐での生活は16年が経過していました。
735年。
仲麻呂の願いがようやく聞き入れられ、36年ぶりの帰国が許されます。
帰国するメンバーの中には、鑑真(がんじん)もいました。
帰国できることになった仲麻呂は、船の上で歌を詠みます。
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
(大空をはるか遠く見ると、美しい月が見える。むかし私が眺めた、春日にある三笠山に出た月も、今夜の月と同じだったなぁ。)
帰国に思いをつのらせる阿倍仲麻呂。
しかし、船が遭難してしまいます。
鑑真がのった船は何とか日本へたどり着きますが、仲麻呂の乗った船はベトナムに漂着。
仲麻呂は、なんとか中国にもどりますが、その後日本に帰ることはなく、中国で一生を終えました。