<出典:wiikipedia>
聖徳太子 574年~622年
574年。
聖徳太子は用明天皇の皇子として生まれました。
593年。
19歳の聖徳太子は、おばの推古天皇が即位した時に”摂政”として天皇のサポート役に任命されます。
摂政になった聖徳太子は、親戚の蘇我馬子と協力して様々な政策を行い、国の安定につとめました。
○ 冠位十二階
それまで豪族たちは家柄によって役職が決まっていました。
しかし、この方法では本当に才能がある人が採用されにくくなります。
そこで、才能や手柄のあった人を役人にするため、冠位十二階という制度を作ります。
6つの色とその濃淡で位を12個に分け、それぞれの能力にあった位が割り当てられました。
○ 十七条の憲法
604年。
聖徳太子は十七条の憲法を制定しました。
この憲法は天皇を中心とする中央集権国家を作るために制定され、「人の和を大切にすること」や「天皇の命令に従うこと」など、貴族の心構えが説かれています。
【内容】
1、人の和を大切にして、争うことのないように!
2、仏教をあつく信仰すること
3、天皇の命令には必ず従うこと
・・・
12、地方の役人が税を勝手にとってはいけない
・・・
17、もめごとは一人で決めず、相談すること
中国へ遣隋使を送る
6世紀末。
中国では国々の争いが続いていましたが、隋(ずい)が統一を成し遂げます。
そこで、聖徳太子は中国の進んだ文化や政治の仕組みを取り入れるため、中国(隋)へ使いを送ろうと考えます。
5世紀に国交が途絶えてから日本と中国の交流がなくなっており、あまり文化が入ってきていなかったのです。
607年。
小野妹子を隋に送り、対等な関係を結ぼうとします。
これに対し中国の皇帝は怒りを示しますが、日本は海を隔てた国。
軍隊を送るわけにもいかず、日本との交易がはじまります。
交易がはじまると、遣隋使と一緒に多くの留学生や・学問僧も中国に渡り、隋の制度や文化が日本に伝えられるようになりました。
仏教を取り入れる
このころの豪族はそれぞれの祖先を神として祭っていましたが、仏教を信仰していた聖徳太子は仏教をひろめ、その教えで国を統一しようとします。
そのため、「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」という仏教の解説書を作成。
飛鳥に法隆寺も建てました。
法隆寺の仏像や工芸品は、主に朝鮮からの渡来人の子孫によってつくられましたが、インドやギリシャなどの文化の影響も見られます。
また、聖徳太子は法隆寺のほかに四天王寺も建てました。
ちなみに、飛鳥の法隆寺を中心に栄え、仏教をもとにしたこの時代の文化を飛鳥文化といいます。