<出典:wikipedia>
平 維盛 たいら の これもり
はじめに
平維盛は1159年に、平重盛の嫡子として生まれます。
父の重盛は、あの平清盛の嫡子です。
維盛は立ち居振る舞いの優美なイケメンで、桜梅の少将というあだ名もありました。
どれほどのイケメンだったかというと、なんと光源氏の再来とまで言われたほどです。
誰もが認めた美男
1176年の3月、18歳の維盛は後白河法皇の50歳を祝う宴で、青海波の舞を披露します。
維盛の舞う姿を見た人たちが絶賛していたことが、『建礼門院右大夫集』に書かれています。
「(維盛の美しさには)花ですら圧倒されてしまいそうだ」
この文章から、維盛が誰もが認めるイケメンだったということがよく伝わってきます。
武人としての維盛
美男として名をはせた維盛ですが、彼は源平最初の全面衝突となった富士川の戦いにおいて大将を務めています。
『平家物語』や『吾妻鏡』では、源頼朝が率いる軍勢が維盛率いる軍勢を退けた戦いとして描かれていますが、頼朝は戦場に間に合わなかったので、実際は甲斐源氏と維盛率いる軍勢の戦いです。
富士川の戦いが始まる前。
陣を構えた時点で、維盛軍からはすでに数百名が投降していました。
現地の平氏勢力は甲斐源氏に二度敗北し、維盛軍の士気は低くなっていたのです。
そのうえ維盛軍は駆武者を多く抱えていました。
駆武者とは仕える家への奉公のために戦う武士と違い、あちこちから集められた戦闘要員のこと。
そのため、意欲が欠けている者が多かったのです。
駆武者たちが次々と離脱するなか。
甲斐源氏の軍勢が行動を起こし、驚いた水鳥が一斉に飛び立ちました。
すると、その音を聞いた維盛の軍勢は、大軍の襲来だと思って大混乱に陥ります。
その結果、戦わずに退却することとなり、富士川の戦いはあっけなく終わりました。
そして、後の倶利伽羅峠の戦いでも、維盛は敗北しました。
1183年。
平家は都落ちし、維盛は妻と子と別れます。
維盛の妻は、藤原成親の娘で、いわば仇敵でした。
なので別れたのは、一門からの風当たりを考慮してのことでしょう。
この際、有力郎等も離反してしまい、その結果、維盛は平家内での居場所をなくしてしまうことになります。
那智の海に散る
翌年、九州まで落ち延びた平氏一門ですが、維盛は妻と子への恋しさで屋島を抜け出し、熊野へ向かいます。
そして熊野参詣の後、那智の海で命を絶ってしまいます。
光源氏の再来と言われた維盛ですが、武人として名を挙げることは叶いませんでした。
しかし、『建礼門院右大夫集』に、「平家の公達はどの人も素晴らしいけれど、やはり維盛様は格別に思う」とあります。
桜梅の少将と呼ばれた維盛が、権勢を誇った平氏栄華の時を華々しく彩ったのは、間違いないことでしょう。