<出典:wikipedia>
はじめに
1871年(明治4年)12月14日。
アメリカのサンフランシスコでは、日本から到着したばかりの岩倉使節団を歓迎する晩餐会が開かれました。
日の丸が掲げられる会場で、300人を超える観衆の視線が、壇上のひとりの日本人にそそがれます。
岩倉使節団の副使としてスピーチを任された伊藤博文です。
「日本の国旗の中央にある赤い丸は、すでに国を閉ざす封印などではなく、まさに洋上に上ろうとする太陽を表しています。
そして、この太陽は世界の文明国に向けて躍進するしるしでもあるのです」
日の丸を指し示しながら、伊藤博文は英語でスピーチをしたのです。
晩餐会に参加していたイギリス公使館のフランシス・アダムスは、「彼の英語はとても流暢だった」と証言しています。
国を閉ざしていた江戸時代。
伊藤博文は、なぜ流暢な英語を話すことができたのでしょうか。
今回は、伊藤博文の「英語力」についてご紹介します。
伊藤博文22歳、イギリスに留学する
伊藤博文は長州藩領内の周防国で百姓の子として生まれましたが、下級藩士であった伊藤家に養子入りした父とともに、足軽の身分となります。
その後、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、1858年に松陰の推薦で長州藩の京都派遣の随行員となり、それがきっかけで1859年に長崎の長州藩邸に入って英語を学ぶようになります。
当時の伊藤博文は、長崎市街を英語の本を読みながら歩き、外国人を見つけては下手な英語でどんどん話しかけていたそうです。
1860年。
久坂玄瑞、高杉晋作など松下村塾の先輩とともに、伊藤博文も尊王攘夷運動に参加するようになりますが、海外留学についても考えるようになります
22歳になった伊藤博文は、長州藩が秘密裏に藩士をイギリスへ留学させようとしていることを知り、自らも志願して参加することになります。
しかし上海で船を乗り換える時には、乗船理由を「ネービー(海軍)」を学ぶためと言いたかったものを「ネビケーション(船乗り)」を学ぶためと言ってしまい、運賃を支払っているにもかかわらず水夫扱いされ、過酷な船旅を送ることになりました。
1863年9月。
ロンドンに滞在した伊藤博文は、ユニヴァーシティ・カレッジでの授業をすべて英語で受講し、カレッジの教授のもとでホームステイをします。
これにより、日常会話にはまったく困ることがないレベルまで英語力を伸ばすことができました。
英語力が決め手で長州藩の通訳に抜擢
イギリス留学中。
ロンドン・タイムズで、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が長州藩を襲撃したことを知り、伊藤博文は志道聞多とともに急遽帰国します。
伊藤博文は英語力を買われ、長州藩の使節高杉晋作の通訳に選ばれます。
交渉の場では、賠償金の支払いを幕府へ請求するよう説得し、彦島租借の要求に対しては古事記の講釈を引用しながら交渉そのものをうやむやにして乗り切ります。
交渉を担当した高杉晋作の果たした役割はもちろん大きいところですが、通訳として高杉晋作の言いたいことを英語にして伝えた伊藤博文も大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
その後も、英語力が決め手となり、藩政を掌握した桂小五郎の指示のもと、外国商人からの武器の買い付けを担当し、倒幕運動に大きく貢献します。
英語力が決め手で初代内閣総理大臣に!
サンフランシスコでの「日の丸スピーチ」から15年後の1885年。
明治政府では誰が初代内閣総理大臣に就任するかが大きな議論となっていました。
当時、太政大臣であった三条実美が大きな支持を集めていましたが、井上馨(志道聞多)が「これからの時代、日本の総理は赤電報(外電)を読めなくては務まらない」と意見し、長州藩出身の山県有朋が「そうなると伊藤君の他にはいないだろう」と賛成したことで伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任しました。
伊藤博文は、青年期に英語学習をはじめ、イギリス留学で英語力を伸ばし、見事、初代内閣総理大臣のポストをつかんだのです。