<出典:wikipedia>
木村昌福 きむらまさとみ
(1891年~1960年)
1891年。
木村昌福は鳥取県で誕生。
海軍兵学校に通いますが、成績は振るわず。
卒業後は、水雷艇艦長としてキャリアを積んでいきます。
1941年。
太平洋戦争が勃発すると、翌年。
少将に昇進。
1945年には中将に昇進し、戦後は部下たちと製塩業を営み平穏な生活を送りました。
コロンボ攻略作戦
木村昌福は人命を尊ぶ優しい人柄で、極力戦闘を避けました。
イギリス領セイロン島のコロンボ攻略作戦にて。
敵の輸送船団6隻を発見。
部下は直ちに砲撃態勢に入ります。
すると、
「撃っちゃあ、いかんぞ!!!!」
突如、木村の大声が響き渡ります。
砲撃手は一瞬あっけにとられます。
すぐさま木村は双眼鏡で輸送船の様子を観察。
敵がボートに乗り移り船から十分に離れたことを確認してから、砲撃命令を出しました。
キスカ島撤退作戦
日本の敗戦が続く中。
日本は北アメリカ大陸のアラスカ半島近くにあるキスカ島に攻め込みます。
ここの土地は一年中ほとんど凍っており、夏は濃霧が発生。
船舶の航行にも支障をきたす海域でした。
なので、アメリカは「手に入れても無意味である」として、作戦の対象外となっていました。
キスカ島にアメリカ軍がいないことに目をつけた日本。
アリューシャン列島に進み日の丸を立てます。
「アリューシャン列島猛攻」
「北方侵略線、ついに崩れる」
新聞の報道が敗戦続きの日本の士気を高めます。
当然アメリカは、これを黙って見過ごしません。
1万1千の兵士が進撃し、アッツ島が奪われます。
続いて、キスカ島が狙われることとなります。
日本はすぐさまキスカ島撤退作戦を実行。
5200名をキスカ島から潜水艦で救出しようとしますが、アメリカ軍の返り討ちに会います。
そこで、木村昌福が招集され、撤退作戦の指揮を取ることになります。
木村の作戦は、「濃霧に乗じて駆逐艦をキスカ湾に高速で突入させ、守備隊全員を救出したうえで速やかに脱出すること」。
作戦が成功するかどうかは、霧の存在にかかっていました。
最初の突入予定は7月10日。
しかし、濃霧があまり発生していなかったため延期。
続いて13日に出撃。
このときはアメリカ艦隊の警戒が厳しかったため延期。
手ぶらで帰国した木村には、罵声が浴びせられます。
しかし、木村は「生きて帰れば、また救出にいける」と考え、じっくりチャンスを待ちます。
1943年7月29日。
キスカ島への突入が決行されます。
電報で連絡を聞いたキスカ島の守備兵たちは、キスカ湾へ整列。
救助を待っていると、日本海軍の艦船が姿を現します。
ここで、木村は守備兵に「携行銃器はすべて海中へ投棄して欲しい」と要請。
陸軍からは「陛下からいただいた銃を捨てられない」と反発を受けます。
しかし、木村はそれを頑なに拒みます。
湾内での滞在時間を1時間以内に抑えるため、人命のみの救出を選んだのです。
作戦は見事に成功。
アメリカ軍に気づかれることなく、5183名がキスカ島から脱出します。
それから2週間後。
アメリカは3万4千の兵を送り、キスカ島攻略作戦を実行します。
日本兵がまだ残っていると考えていたアメリカ軍は、上陸すると同士討ちを開始。
100名以上の死者を出してしまいます。
さらに、日本軍の軍医が書いた「ペスト患者収容所」の文字を見つけ、パニックに。
本国に大量のワクチンを発注してしまいます。
味方を全員救出し、敵に大きな被害を出したキスカ島撤退作戦。
のちにアメリカ軍は「パーフェクトゲーム」と称賛しました。