<出典:wikipedia>
田中頼三 たなからいぞう
(1892年~1969年)
1892年。
田中頼三は、山口県の本間家で3男として誕生。
山口中学校を卒業後に田中家に養子入りします。
1913年。
海軍兵学校を卒業すると、水雷屋としてのキャリアを重ねていきます。
1941年。
太平洋戦争がはじまったとき、田中は第2水雷戦隊司令官でした。
そして1942年2月。
田中はスラバヤ沖海戦に参加します。
この戦いでは日本海軍と連合国海軍の水上艦船が衝突。
田中は遠距離からの魚雷でひたすら攻撃し、自軍の損失少なく勝利に貢献しました。
しかし、この戦い方が“消極的”ということで問題視されてしまいます。
ガダルカナル島攻防戦
劣勢が続き、ガダルカナル島の制空権をアメリカに奪われた日本。
そんななか、田中頼三に陸軍への補給物資輸送の任務が与えられます。
ガダルカナル島には、3万人もの日本兵が駐留。
しかし、ガダルカナル島近くの海域で制空権のない日本は、低速の輸送船では補給物資を運べません。
そこで駆逐艦を使うこととなりますが、駆逐艦には大量の物資を積むことはできません。
こうして駆逐艦が、敵に見つからないよう夜間に、一列になって進むこととなります。
この様子をアメリカ軍は「東京急行」と呼び、日本は「鼠輸送」と自嘲していました。
日本には補給物資を輸送する術がこれ以外になく、アメリカ軍もそれを知っていました。
当然、日本軍駆逐艦部隊とアメリカ軍はたびたび衝突。
1942年11月30日に、田中頼三の率いる第2水雷戦隊も、アメリカ軍の待ち伏せを食らいます。
まず、異変を察知したのは単独で見張りをしていた駆逐艦「高波」。
カールトン・ライト少将が率いるアメリカ海軍第67任務部隊が忍び寄ってきたことを確認します。
そして、「高波」は集中砲火をくらい炎上してしまいます。
これを聞いた田中は物資の荷下ろしを中断して、出撃します。
このとき、砲撃を打つことを許さず、魚雷のみでの攻撃を指示していました。
大砲を打つと火薬の光で、自分たちの位置を相手に教えることになると考えたのです。
逆にアメリカ軍は大砲を撃ってきました。
そのため、第2水雷戦隊はその大砲の炎に狙いを定め、次々と攻撃を命中させます。
アメリカ巡洋艦「ノーザンプトン」は沈没、「ミネアポリス」「ペンサコラ」「ニューオリンズ」が大破。
唯一攻撃を逃れたアメリカ軍艦は、軽巡洋艦「ホノルル」のみでした。
戦いが終わってみると、日本軍の被害は「高波」だけ。
田中頼三の第2水雷戦隊は大勝利を収めたのです。
評価の分かれたガダルカナル島攻防戦
ガダルカナル島攻防戦で勝利をおさめた田中頼三。
しかし、日本海軍の上層部は田中を叱責します。
「本来の任務である輸送作戦を放棄した」として、田中を左遷し、舞鶴海兵団長にしてしまいました。
これ以降、田中頼三が艦隊の指揮をとることはなくなり、第13根拠地隊司令官としてビルマで終戦を迎えました。
日本海軍上層部がこのように判断したのは、田中頼三の人柄が関係していたようです。
田中は人付き合いが苦手で頑固。
ズケズケと物を言うため、上層部からは煙たがられていたのです。
一方。
田中頼三はアメリカから高い評価を受けます。
日本海軍上層部が田中を左遷すると、アメリカ軍内では「なぜ田中を前線から外したのか!?」という声が聞かれ、のちにアメリカの戦史家サミュエル・モリソンは田中頼三のことを「恐るべき田中」と呼んでいます。
また、軍事史研究家のハンソン・ボールドウィンは「太平洋戦争における名将のなかのひとり」として田中の名を挙げました。