<出典:wikipedia>
三川軍一 みかわぐんいち
(1888年~1981年)
1888年。
三川軍一は広島県で誕生。
海軍兵学校を卒業し、1928年にフランスに派遣されます。
翌年。
国際連盟の海軍代表隨員を務め、そのままフランスの大使館付武官となります。
1930年。
日本に帰国。
1940年に中将に昇進します。
第一次ソロモン沖海戦
1941年に太平洋戦争勃発。
1942年6月にミッドウェー海戦で空母を4隻失い、徐々に戦局が悪化します。
日本には新たに空母を建設する予算も時間もなかったため、航空機を活用できる飛行場を探します。
そこで目をつけたのが、ニューギニアのラバウルとガダルカナル島でした。
急いで飛行場を作りはじめた日本ですが、アメリカ軍が黙っていません。
海兵隊1万9000人を投入しガダルカナル島に攻めてきます。
ガダルカナル島にいた日本軍守備隊は247人。
抵抗することもできず、アメリカ軍に占領されてしまいます。
このとき三川軍一は、新設されたばかりの第8艦隊司令長官。
ガダルカナル島から1000km離れたラバウルで、この知らせを受けました。
すぐさま対応に入る三川でしたが、第8艦隊は重巡洋艦「鳥海」以外は旧式の軽巡洋艦2隻。
これではアメリカ軍に対抗できません。
そこで、近くにいた第6戦隊を加えて、8隻でガダルカナル島に向かいます。
目的は2つ。
ガダルカナル島の守備隊に増援部隊を送ることと、物資陸揚げ作業中のアメリカ軍輸送船団を攻撃すること。
三川軍一は全艦に命令を出します。
1、攻撃目標は敵の輸送船である
2、単縦陣による一通過の攻撃を行うこと
3、翌朝までに敵空母の攻撃圏外に離脱すること
寄せ集めの艦隊だったため、命令を減らし単純戦法にすることで艦隊をまとめ上げたのです。
8月8日16時30分
三川が戦闘前の訓示を発し、23時30分に突撃開始。
アメリカを中心とする連合軍に大打撃を与えます。
アメリカ重巡洋艦「アストリア」「クインシー」「ビンセンス」撃沈。
オーストラリア準巡洋艦「キャンベラ」撃沈。
オーストラリア駆逐艦「ラルフ・タルボット」「パターソン」大破。
これに対し、日本軍の被害は軽微。
ツラギとガダルカナル島の奪還まではできませんでしたが、日本軍の勝利に終わります。
のちにハーバード大学の歴史学教授サミュエル・モリソンは、このときの三川軍一の指揮を「見事なお手並み」と称賛しました。
1945年5月。
三川軍一は予備役に編入され、終戦を迎えます。
戦後。
奈良県で暮らした三川は、1981年に老衰により亡くなりました。