奇跡のタイムカプセル・正倉院

<出典:wikipedia

正倉院は、奈良の大仏で知られた東大寺にある大きな高床式倉庫。
756年頃に建立された、東大寺の宝庫群で唯一現存するものです。
北倉・中倉・南倉に分れた蔵には、聖武天皇の遺品などが数千点収められていました。

正倉院は沢山存在していた

もともと正倉院は一つではありませんでした。
奈良時代の南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺)にあったものです。
寺の什器や宝物などを収蔵する倉庫は大切に塀で囲われ、みな「正倉院」と呼ばれていました。
しかし、長い年月のうちに、残ったのは東大寺の中の蔵一棟のみ。
そのため、正倉院は東大寺のその蔵のことを指す固有名詞となりました。

正倉院の魅力

正倉院の宝物は、絵画、書跡、ガラス器、楽器、刀剣などなど。
日本製品ばかりではなく、中国や中央アジア、ペルシャなどからの輸入品も沢山ありました。
これらの品々の素晴らしい点は、遺跡から発掘された品ではなく、火事や天災に遭うこともなく倉庫に大切に保管されていた品物だったこと。
本来の輝きに近い美しさを留めた至宝が沢山残されており、奈良時代の貴重な史料や古代の薬品などを現代に伝えてくれたのです。

宝物の長期保存に校倉造りは無関係!?

正倉院は、校倉造(あぜくらづくり)という長い三角柱状の木材を重ねて作った壁面の構造を持つことで知られています。
以前は、この校倉造こそが宝物の長期保存を可能にした秘密だとされていました。
湿度が高ければ木材が膨張して外部の湿気の侵入を防ぎ、外気が乾燥している場合には、木材が収縮してできた隙間からの通気で庫内環境が一定に保たれるという理論でした。
しかし、実際は重い屋根の荷重のために、木材には伸縮する余地のないことが判明。
現在は、宝物の保存状態がよかったのは、幾重にもなって宝物を収めていた唐櫃(からびつ)という箱のおかげだと考えられています。
温度や湿気を一定に保ち、害虫の侵入を防いだ唐櫃こそ、文化財にとって良好な保存環境を作っていた秘密でした。

正倉院の宝物に国宝・重要文化財はゼロ!?

螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)、鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ)など、美しく素晴らしい宝物を現代に伝えた正倉院。
しかし、収蔵されていた文化財に国宝や重要文化財などに指定されているものは一切ありません。
なぜでしょう?
実は、これらの文化財は、皇室の財産として宮内庁が充分な管理を行っており、文化財保護法の指定の対象外なのです。
保護しなくても充分目が行き届いているため、新たに指定する必要がないという理屈です。
ただ、唯一正倉院の宝庫だけが国宝に指定されました。
それは、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるときに国の保護の対象となっていることが条件だったためだそうです。

正倉院の中を覗き、品物を持ち出した歴史上の権力者たちとは?

正倉院は本来天皇の宝物を入れておく蔵でした。
現在のように一般公開される以前には、天皇家の関係者でなければ中のものを見ることは許されていませんでした。
しかし、長い歴史の中で、天皇家以外の権力者たちが宝物を見たという記録があります。
それらの人物とは・・・。
・藤原道長
・足利義満
・足利義教
・足利義政
・織田信長
いかにも、なメンバーですね。
しかも、足利義政、織田信長、そして明治天皇も宝物の一部を削り取って持ち出しています。
彼らが持ち出した物とは、「黄熟香(おうじゅくこう)」または「蘭奢待(らんじゃたい)」と呼ばれる南アジア原産の香木です。
実はこの「蘭奢待」という名は、特別な名前。
3文字の漢字の中に「東大寺」の文字を隠し持つ雅名です。
織田信長は、1574年に天皇から正倉院の開封を許され、蘭奢待2片を切り取らせたそうです。
それほど魅力のある香木なのですね。

今でも正倉院展が開催されるときはいつでも多くの人で賑わいます。
古代から現代への奇跡のタイムカプセル・正倉院とその宝物は、今も昔も人々を魅了し続けています。

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