<出典:ameba>
戦国武将の織田信長(1534年-1582年)は、新しいこと・珍しいことが大好きで、目立ちたがり。
自信にあふれる行動には颯爽としたイメージがありますが、サディスティックな一面があったことも事実で、一向一揆攻めや比叡山焼き討ちなど残酷な事件もありました。
そんな彼は、人を名付けるときも随分と投げやりで非情でした。
サド的な性格がそうさせたのでしょうか。
そして、そのネーミングセンスが自分自身に向かったときには・・・。
信長が自分の子供たちにつけた名前がひどい
武士や貴族の子供は、元服するまで幼名が付けられます。
源義経は牛若丸、
徳川家康は竹千代。
織田信長の名前は吉法師。
いずれも子の将来を考え、縁起の良い名前や、代々続いた由緒ある名前の場合が多いのですが、
それを頭に入れた上で、信長の大切な息子たちの幼名を見てみましょう。
長男 奇妙丸
次男 茶筅(ちゃせん)丸
三男 三七(3月7日に生まれたから)
四男 於次(おつぎ)
五男 坊丸
六男 大洞(おおぼら/六男と七男はコンビで)
七男 小洞(こぼら)
八男 酌(しゃく/実母の名はお鍋だった)
九男 人
十男 良好
十一男 緑
投げやり感満載の命名ぶりです。
キラキラネームではないか、という話もあります。
信長は長男(のちの信忠)に世継ぎとしての教育には余念がありませんでしたが、なぜ「奇妙」という名を選んだのか理解に苦しみます。
次男の「茶筅」も同様です。
三男、四男は冗談のよう。
五男の坊丸はまだまともなほうでしょう。
六男、七男はまるで漫才師の芸名のようです。
八男が「酌」と名付けられたことは、彼の実母の名が「鍋」だったことと関連するのでしょうか。
九男の「人」は親が子につける名ではない気がします。
十男、十一男についても、意図不明・・・。
いずれ元服すれば変わる幼名だとはいえ、自身の子供にこれほど突き放した命名をする親がかつてあったでしょうか。
家臣や大名たちにもつけたろくでもないあだ名
自分の息子たちにあれだけの幼名をつける織田信長です、
家臣や他大名たちを呼ぶ時に遠慮などあろうはずがありません。
いくつかご紹介しましょう。
明智光秀:金柑頭(キンカあたま/禿げの意味)
羽柴秀吉:剥げねずみ(秀吉の妻であるねねへの手紙の中に書かれた)
佐久間信盛:おおぬる山(1573年の朝倉攻めでおおぬる山で待機した際、油断して攻撃に遅れた失態を犯したことを責め、あだ名にした)
長宗我部元親:鳥なき島のコウモリ(鳥のない場所ではただ飛べるだけでコウモリが偉そうにすること、転じて優れたものがいない土地ではつまらない者が威張っていること。四国の大名だった元親をそう呼んだ)
平野甚右衛門:ちょっぽり甚右衛門(身体の小さかった家臣につけたあだ名)
明智光秀など、クールなやり手のイメージがありますが、信長にかかれば容赦ありません。
それにしても、信長は相手の特徴をうまく掴んでいるようではありますが。
信長が自称した呼び名
本人はそれほど気にもしていなかったと思われますが、信長自身は若いころに「うつけ(ばか者)」などと呼ばれ、あだ名ではいい目はしていませんでした。
そんな彼が何と自称していたご存知ですか?
それは、ルイス・フロイスというキリスト教宣教師の書いた報告書の中の、甲斐国の武将・武田信玄との手紙のやりとりに見られるものです。
1573年。
武田信玄は、一向一揆や延暦寺への焼き討ちなど遠慮のない攻撃を繰り返す信長を牽制するために挑戦状を送りました。
その中で彼は、「天台座主沙門(てんだいざすしゃもん)信玄(天台宗の代表である信玄)」と署名しました。
信玄は本当の天台座主(延暦寺の長)沙門(仏教徒)ではありません。
しかし仏教を支援し、延暦寺の復興を果たすことを大義名分として挙兵しようとしていたのです。
その挑戦状に対して信長が手紙を返す時に、対抗して署名したのはなんと「第六天魔王」。
第六天魔王とは、仏道修行を妨げる魔王のことです。
なんだかひどく強そうな邪悪そうな、それでいて格好いい響きです。
そっちが仏教界のトップだというならば、こっちは魔王だ、とばかりの対抗意識で書かれたものでしょう。
(戦国ゲームなどでも信長のキャッチコピーのように使用されていますね。)
それにしても、「きんかん頭」「剥げ鼠」「奇妙丸」などと名付けておいて、自分だけ「第六天魔王」というのは、カッコ良すぎてずるいと思うんですけれども・・・。