鬼庭良直(おににわよしなお)(1513年―1586年)。
左月(さげつ)もしくは左月斎(さげつさい)の名で知られる伊達家の家臣です。
彼は身を張って伊達政宗を逃がしたことで知られています。
鬼庭左月という人物
父と共に伊達晴宗に仕えた左月。
1564年に伊達輝宗が当主になると、左月は評定役に抜擢され、輝宗の側近として政務の中核で活躍しました。
輝宗は嫡男の政宗に家督を譲りますが、1585年に畠山義継によって殺害されてしまいます。
その後、政宗を見限って離反した武将たちの連合軍が、伊達軍を攻撃してきました。
このときの「人取橋の戦い」で活躍したのが左月でした。
人取橋の戦い
連合軍は3万以上ある大軍でした。
対する政宗軍は8千のみ。
数では全く勝負になりそうもありませんでしたが、片倉小十郎や伊達成実らの奮戦によって最初は互角に戦っていました。
しかし、時間と共に政宗軍は苦戦を強いられるようになり、鬼庭左月が政宗を逃がすため、殿(しんがり)となりました。
そして、政宗を安全な所に退却させるまで自分で敵を食い止めようと、100騎にも満たない軍勢で決死の突撃をしました。
このときの左月は既に73歳の高齢。
すでに重い甲冑を着けることもできず、兜もかぶらずに代わりに黄色い綿の帽子をかぶっただけの軽装でした。
しかし、左月が率いた鬼庭隊は200を越える首印を取るほどの奮戦ぶり。
おかげで政宗はその間に本宮城に逃げ込むことができたわけです。
当時としては長寿の域に入る73歳の左月にしてみれば、もう命は惜しくなかったのかもしれません。
奮戦に奮戦を重ね、最後は全身に矢を受け、刀や槍によるさまざまな傷を負って討ち取られてしまいました。
その後、なぜか敵軍の佐竹氏たちは仲間割れ。
また、佐竹氏の留守を里見氏が襲ったこともあり、退却をしました。
こうして政宗も政宗軍全体も危機から脱しました。
左月は長生きしたのか短命か?
左月によって生かされた命で、政宗はその後仙台62万石の大名となっていきました。
左月には息子の綱元がいました。
政宗の重臣となった彼に、あるとき豊臣秀吉が問いかけました。
鬼庭氏の一族が代々長寿の家系であるということを聞いた秀吉が、その秘訣を問うたのです。
綱元は、膳の湯にもち米の粉を多量に溶いて朝夕飲む先祖代々の健康法について秀吉に教えました。
そしてひと言付け加えます。
「一族は長寿ですが、私の父・良直(左月)は早死にし、73歳で死んでしまいました」と。
73で早死に?
秀吉もきっと驚いたことでしょう。
その言葉通り、綱元自身も92歳まで生きた長寿でした。
歴代の鬼庭氏の中で一番の若死には左月だったことは本当かもしれません。
長生きしたかった秀吉にしてみれば、全く羨ましい限りの家系だったわけです。