遺跡といえば「登呂遺跡」。注目されるワケは?

<出典:wikipedia

私たちが学校で日本の歴史を学び始めた頃、必ず耳にする遺跡の名前、登呂遺跡。
静岡県静岡市にあり、市民のみならず全国の人々が知る弥生時代の集落・水田遺跡です。
とはいえ多くの人は、この遺跡がどんな意味を持った遺跡なのか知らなかったり、忘れたりしているかもしれません。
約2000年前の弥生人の生活跡が残る、実は「すごい」遺跡なんです。

登呂遺跡は、国宝級遺跡

登呂遺跡は、静岡県静岡市にある「国指定特別史跡」です。
これは、史跡として「国宝級」に位置づけられる重要な文化史跡であることを意味します。

ここで発見されたのは、8万平方メートルを越える水田跡、井戸、平地式住居、高床式倉庫、そして農耕や狩猟、漁業のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いられた骨などです。
1999年からの5カ年計画による再発掘調査では、新たに装身具である銅釧(かなくしろ/どうくしろ)、漆塗りの琴、祭殿跡なども出土しています。

現在、遺跡には当時の人々の平地式住居や、高床式倉庫などが復元展示されており、水田の様子など当時の状況がわかりやすく説明されています。

登呂遺跡発見の経緯

第二次世界大戦中の1943年。
登呂の水田エリアでの軍需工場建設が進められることになったとき、水田の約1m下から多くの木製品と水田跡らしき杭列が発見されました。
それらが在野の考古学者安本博氏によって、奈良県の唐古遺跡に匹敵する大発見であることが判明したのです。
当時、毎日新聞にて登呂遺跡発見が報じられましたが、戦時中ということもあって、結局再び発掘調査が開始できるのは1947年まで待つことになりました。

登呂遺跡の発掘が戦後日本の復興に

第二次世界大戦で敗戦した日本でしたが、1947年に開始された登呂遺跡発掘は、敗戦国日本の復興への希望の光となりました。
戦前、『古事記』『日本書紀』の神話部分をも歴史的事実とし、万世一系の天皇を中心とする皇国史観が人々に根付いていました。
しかし登呂遺跡発掘は、人々が自分たちの力で、「神話ではない本当の日本のルーツ」を探るという意味を持ったのです。

考古学者、地質学者、民俗学者、建築学者、農業経済学者そして植物学者など優秀な学者が結集し、さらに学生が加わって分野の垣根を越えた連携による古代解明プロジェクトチームが結成されました。
充分な資金どころか食料さえない戦後の日本でしたが、地元の人々は応援や支援を惜しみませんでした。
そして、発掘に参加した学者や学生、大学や新聞社などの声が国を動かし、登呂遺跡発掘は「国家プロジェクト」になりました。
こうして国の予算による、戦後最初の本格的で科学的な発掘調査が実現したのです。
2003年までに再発掘調査が何度も行われ、2016年には登呂遺跡の出土品775点が重要文化財指定されています。

登呂遺跡での生活

戦後日本の再構築として大きな意味があった遺跡発掘は、登呂の地にあった弥生時代の生活を解き明かしていきました。
登呂遺跡での弥生人たちの生活は、集落を作り水田で耕作を行う豊かなものだったことがわかっています。

〇 バラエティ豊かな食生活
米、どんぐり、くるみなどの木の実を採り、弓矢で鹿や猪を狩猟して食用にしていました。
また、海にも近いため、魚類、貝類も食べていました。

〇 工夫された住居
エリアの地下水位が高く、地面に水が染み出ることがありました。
そのために、床面には粘土・焼土や炭を何層にもして防水構造を作っていました。
また、住居の周辺には盛り土をして水の浸入を防ぎ、その外側には排水溝が作られていました。

遺跡としての高い価値

登呂遺跡の価値として一目置かれる理由は2つ。

・弥生時代を象徴する水田と住居がセットになった遺跡であること
・数と種類の多い登呂遺跡の出土品が、他県での出土品の「指標」となること

登呂遺跡の出土品は、木製品が約2000点以上もあり、発見された道具だけで今でも生活ができるほど道具の量と種類が豊富です。
「指標」とされるその意味は、別の遺跡などで古代の道具が発見されたときに、登呂遺跡の既にある出土品が比較基準となっているからです。

このように、登呂遺跡は日本の国の成り立ちを知る上で、非常に重要な役割を果たしている遺跡です。
だからこそ日本人は歴史を学ぶ時に必ず一度は「登呂遺跡」について耳にするわけですね。

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