<出典:wikipedia>
日本の古代の歴史に登場する2つの金印があります。
「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印」と「親魏倭王(しんぎわおう)印」。
この二つの金印については、混同されることも多いようです。
また「漢委奴国王印」は知っていても「親魏倭王印」のことは知らないという人も多いかもしれません。
ここで二つの印について整理してみました。
「漢委奴国王印」vs「親魏倭王印」
二つの印綬は似て非なるもの。
その時代も意味することも別です。
【金印の在りか】
漢委奴国王印は、福岡市立博物館に展示保存されています。
江戸時代に福岡の百姓が志賀島(しかのしま)で農作業中に発見した金印です。
福岡藩主である黒田家に代々伝わり、のち福岡市に寄贈されました。
親魏倭王印は実在したと考えられていますが、現物は未だ確認されていません。
【2つの印の背景と意味】
漢委奴国王印は、西暦57年に中国の「後漢」王朝から「倭」とよばれた日本に存在した「奴国」の「王」に贈られたものです。
中国の史書『後漢書』に光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。
「委」の文字は「倭」の略字です。
ただし、この史書の成立は5世紀頃とされており、実際に贈られた時期からずっと後になって記録されたことになります。
親魏倭王印は、西暦238年もしくは239年に「魏」と呼ばれた中国の王朝の烈祖明帝(れつそめいてい)もしくは斉王が「倭の王」つまり日本の王に贈ったという記録が『三国志』の中の「東夷伝倭人条」部分、いわゆる『魏志倭人伝』に残っています。
ここで言われる倭王とは、魏の都へ貢ぎ物を送った邪馬台国の卑弥呼のこと。
印綬は邪馬台国に対して授けられました。
西晋時代の陳寿(ちんじゅ)が280年から297年に著したこの記録は、「漢委奴国王印」の『後漢書』よりも先に書かれたことになります。
【2つの金印と史料からわかること】
印綬の文言によって当時の日本の様子が窺えます。
「漢委奴国王印」からは、漢王朝から印を受け取った日本側は倭国と呼ばれたこと。
そして倭国にある幾つかの国の中に「奴国」があり、そこに「王」が君臨していたことがわかります。
つまり、受け取った「王」は、倭国の代表ではなく「倭国の中の一つの国である奴国」の代表だったわけです。
ただし、国名として「委奴」を「いと」と読み、委奴国(いとこく)だったという説もあります。
金印自体は、縦横高さが約2.3cmx2.3cm x 2.2cmで、つまみ部分の形が蛇になっており、当初は紫色の紐がつけられていました。
調査の結果、印綬は確かに中国産の金で作られていることが判明しています。
一方、「親魏倭王印」は「倭王」つまり「日本の王」に贈られた印綬です。
邪馬台国の卑弥呼は、日本を代表した王として認識されていました。
奴国があった時代から日本国内におけるいくつかの国の統合が進み、邪馬台国が中心的な存在になっていたようです。
さて、印綬は卑弥呼個人に対するものではなく、国に授かった公的な物ですから、卑弥呼の次の女王となった娘の壱与(いよ)もしくは台与(とよ)が引き継いだ可能性があります。
また、諸外国は中国の王朝交代時には、受け取った印を返上して新王朝への忠誠を誓い、新たな王朝からの印綬を授かることが通例となっていました。
265年に中国の王朝が魏から西晋となった翌年に邪馬台国の壱与が朝貢していますから、この金印は西晋に回収され、新たに別の印を授与された可能性もあります。
ただし、印綬はもちろんそれを示す史料は発見されていません。
この二つの金印の存在や記録は、日本国内における王朝の所在、邪馬台国がどこにあったのかという論争にも関わるものですが、未だにこれらの論争に終止符を打てる答えは見つかっていない状況です。