<出典:黄金の金玉を知らないか?>
2024年から使われることになる新札の新しいデザインに登場する3名の日本の偉人。
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎
この3人、実はいくつか共通点があります。
生きた時代がほぼ同じ
まず、3人はほぼ同じ時代に生きた人たちです。
過去には、聖徳太子、神功皇后、紫式部、菅原道真、藤原鎌足たちなども日本の紙幣の顔になりましたが、近年は紙幣の偽造防止用に精密な肖像画を描くため、元写真がある人物が選考される傾向があります。
そのため、今回のように近代以降の人選になったのでしょう。
2024年新札の3人の生没年は以下のようになっています。
・渋沢栄一 1840年2月13日~1931年11月11日
・津田梅子 1864年12月3日~1929年8月16日
・北里柴三郎 1853年1月29日~1931年6月13日
これを見ると、3人がほぼ同時代に生きたことがわかります。
大学設立に携わった
明治とは、社会システムや産業などが大きく変革していった時期でした。
3人の業績や功績も「変革の時代に生きた」という事実に大きく関わっています。
彼らの活動の中で、共通事項として挙げられることの一つが大学の設立に関わったことです。
【渋沢栄一】
実業教育が行われていなかった当時の社会に対し、渋沢は教育に力を入れることを訴えました。
そして、商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)、二松學舍(現二松學舍大学)、学校法人国士舘、同志社大学、日本女子大学校、東京女学館の設立など、教育界における幅広い活動を行いました。
【津田梅子】
「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を東京麹町区に設立すると、彼女自身が塾長となり、華族平民の別のない一般女子の教育を始めました。
【北里柴三郎】
生前から福沢諭吉とは深い交流があり、福沢の没後の1917年、諭吉による長年の多大なる恩に報いようと、慶應義塾大学医学部を創設。
これは大学そのものの創設ではありませんが、彼自らが初代医学部長、付属病院長となっています。
福沢諭吉との関わり
北里のみに限らず、残り2人も福沢諭吉と何らかの接点がありました。
【渋沢栄一】
『論語』を精神的な拠り所とした渋沢と違い、福沢はそれを嫌っていました。
福沢は2000年前の教えをそのまま現代に通用させるのはおかしいと考えたのです。
しかし、福沢は彼が発行する新聞『時事新報』1893年6月11日の中で、渋沢栄一の生き方に共感しています。
「政府の役人になることだけが出世の道だと思い込む人はそんな夢からはやく目覚めよ。実業の道に進み、この現代社会で、今最高の地位にある渋沢栄一の生き方を模範とすべき」と述べています。
合理的な考え方で封建的差別制度を嫌った2人。
明治政府への仕官を辞任した渋沢と、民間人として生き続けた福沢。
考え方は違っても、2人の到達点は決して遠く離れてはいませんでした。
【津田梅子】
渡米経験もあり、英語に堪能だった福沢は、1867年に津田仙という人物と一緒に通訳としてアメリカに随行しています。
実は、この津田仙こそ、新5000円札の顔・津田梅子の父親です。
欧米諸国の女性解放思想を日本に紹介し、女性の自由と男性と同等の教育を受ける権利を主張した福沢諭吉の考えは、
1900年に女子英学塾(現津田塾大学)を設立し、女性への進歩的でリベラルな教育を目指した津田梅子の考えと重なります。
【北里柴三郎】
破傷風菌の血清療法の開発という世界的な偉業を達成して、1892年にドイツ留学から帰国した北里。
しかし、内務省衛生局に復帰しても研究室も与えられず、恵まれない状況でした。
そんな彼の業績の偉大さを認め、救いの手を差し伸べたのが福沢でした。
東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して北里を所長に迎え、彼をサポートし続けました。
福沢の死後、慶應義塾塾長から相談を受けた北里は、慶應義塾の医学科新設に尽力し、1917年に初代医学科長に就任しています。
終生報酬を固辞し、無給で慶應義塾医学部の発展に尽くして福沢の恩に報いたのです。
明治の変革期に生きた3人と1人。
精力的に広く活動をしていた人々ですから、交友範囲が重なる部分があるのも、もっともな話。
2024年からの新札の顔となる3人は、一万円札の顔として親しまれた「ユキチ」とクロスオーバーしながら明治の変革期で活躍していたのですね。