<出典:wikipedia>
1573年。
奥三河の国衆である奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は、武田家から奪ったばかりの長篠城を徳川家康から託されました。
奥平氏はもともと徳川方から抜けて武田家の傘下に従属したのですが、武田信玄の死亡がわかり、再度徳川家に寝返っていました。
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼(かつより)はそれに対し立腹しており、長篠城を奪還するために軍で城を包囲しました。
長篠城の危機
武田氏の1万5千の兵に比べ、長篠城主・奥平貞昌の城兵はたった500で持ちこたえていました。
しかし、開戦から6日目。
兵糧庫を焼失してしまいました。
これで長期の籠城が難しくなった長篠城。
飢えのためにあと数日で落城かという状況に追い詰められました。
奥平貞昌は、岡崎城にいる家康に援軍を求めたいものの、城は武田の大軍に取り囲まれており、それを突破するのは至難の業です。
そんな時、一人の足軽が援軍要請の使者に志願しました。それが鳥居強右衛門(とりいすねえもん)でした。
足軽・鳥居強右衛門は、奥平家の陪臣(家来の家来)で、名を勝商(かつあき)といいました。
三河国宝飯郡(愛知県豊川市)の生まれで、長篠の戦いの時は数えで36歳。
水練の達人でした。
強右衛門の鉄人レース
強右衛門は、夜陰に乗じて城の野牛郭(やぎゅうくるわ)と呼ばれる下水口から出発しました。
川を潜って武田軍の長篠城包囲網を見事突破。
長篠城から見通せる雁峰山(がんぼうざん)からのろしをあげて、脱出の成功を城に知らせると、その日の午後には岡崎城に到着しました。
全行程が水泳4km、走行距離が65kmの鉄人レースをやり遂げ、無事に援軍派遣を要請した強右衛門。
タイミング良く、家康と連合を組んでいた信長軍も既に岡崎城で準備をしていました。
織田・徳川合わせて3万8千の軍は翌日にも長篠へ向けて出発できる手はずが整っていたのです。
強右衛門の努力は実りました。
強右衛門、吉報を長篠城へ
大喜びの強右衛門は、信長や家康が身体を休めるように言うのも聞かず、吉報を届けるためにすぐさま元来た道を長篠城へ戻りました。
そして再度城に残る仲間たちへ「うまくいった」と前回と同様にのろしを上げて、長篠城への入城を試みたのでした。
ところが、入城の際。
強右衛門は武田軍の兵に見つかり、捕らえられてしまいました。
武田勝頼の軍は、のろしが上がるために城から上がる歓声を不審に思って警戒を強めていたのでした。
武田勝頼と強右衛門の取引
取り調べによって織田・徳川連合軍が長篠城へやってくることを知った勝頼は、強右衛門に取引を持ちかけます。
その内容とは、「援軍は来ないからあきらめて城を明け渡せ」と嘘の情報を城に伝えれば褒美を与え、武田の家臣として厚遇するというもの。
強右衛門はそれを快諾しました。
そして長篠城を見通すことの出来る場所へと引き立てられた強右衛門は城に向かって決死の覚悟で叫びました。
「あと2、3日で数万の援軍が必ず来る! だからそれまで持ちこたえよ!」と。
驚いた勝頼は怒りまくり、その場で強右衛門を磔にして殺してしまいました。
それを目にした長篠城の城兵たちは、援軍の報せと強右衛門の死に奮起して、味方がが到着するまでの2日間を必死で耐え、城を武田軍から守り通すことに成功しました。
のちに信長を総大将とする軍が武田軍を破り、長篠の戦いは織田・徳川連合軍が勝利しました。
強右衛門の命は消えても
そののち、強右衛門は武功を評価され、子孫は武功を重ねながら、強右衛門の名を代々受け継ぎ、上級武士へと出世していきました。
磔にされるまでの少しの間、監視役だった武田家の家臣・落合左平次は、彼の忠義心に感じ入り、磔にされた強右衛門の姿を絵に残して自分の旗指物(はたさしもの/戦場で目印として背中にさした小旗)として使ったそうです。
さらに、あの織田信長は、足軽・鳥居強右衛門の忠義に報いて立派な墓を作ってやりました。
今でも墓は愛知県新城市の新昌寺にあります。
その入り口にある石碑には「鳥居権現」と書かれていますが、権現とは神さまのこと。
今や鳥居強右衛門は神さまとして地元の人々に愛され、大切にされているのです。