『枕草子』で有名な清少納言には兄がいました。
清原致信(きよはらのむねのぶ)(生年未詳~1017年)という人物です。
清少納言の実兄である中級官人・清原致信は、寿命や病気で亡くなったのではありません。
殺害されました。
藤原道長の日記『御堂関白記』にその事件の記録が残っています。
1017年3月8日に、白昼堂々7、8騎の騎馬武者と数十人の徒歩の者たちの一団が、清原致信の家宅を襲いました。
発見されたとき、彼は数本の矢に身体を貫かれて血の海の中で絶命していたと想像されます。
道長の記録からはわかりませんが、武者たちは致信殺害の証拠に首を切り離して持ち去り、発見時には首なしの遺体だった可能性もあります。
とにかく状況は凄惨を極めていました。
清原致信は、清少納言の兄であると同時に、『後撰和歌集』の編纂者の一人である著名歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の息子であり、
『古今和歌集』に多くの名歌を残した清原深養父(きよはらのふかやぶ)のひ孫です。
文化人の家の出であり、中級貴族の彼にしては似つかわしくない死に方でした。
殺害された理由
こうなったのには、驚きの理由がありました。
実は、彼自身がある人物の殺害事件に関係しており、今回の事件はその報復だったのです。
致信は強欲で知られた大和守の藤原保昌に仕えていました。
保昌は自分の甥である源頼親(みなもとのよりちか)と同国内の利権争いをしました。
その時に、源頼親側の関係者である当麻為頼(たいまのためより)を殺害したのです。
そして、その殺害に関与していた致信が報復の対象となったのでした。
彼が直接当麻為頼を殺害したかどうかはともかく、殺害に関係したために殺されたことは間違いありません。
おそらく源頼親は、自分の母の兄弟である保昌はさすがに殺せなかった代わりに、清原致信を殺したのではないかと考えられています。
殺害関係者の驚く素性
こんな暴力的な殺人事件の関係者たちとはどれほど野蛮な人物だったのでしょう。
驚くなかれ。
清原致信が仕え、当麻為頼の殺害を命じたとされる強欲な受領・藤原保昌は、有名歌人和泉式部の夫でした。
それに対して清原致信を殺すことを命令した源頼親は、大江山の酒呑童子という妖怪を退治した英雄・源頼光の弟で、大和源氏と呼ばれる武士団を率いる地位のある人物だったのです。
清少納言の兄・清原致信、和泉式部の夫・藤原保昌、源頼光の弟・源頼親・・・。
揃いも揃って文化的であり、常識人たるべき人々が、2件の殺人事件に関わっていたというこの事実。
しかも清原致信は加害者で被害者。
平安時代という時代に、「平安」ですまされない事件が起きたのには、こんな背景があったのです。