江戸時代、関所破りは重罪でした。
関所破りとは、関所手形を持たずに不法に関所を通過したり、迂回路を通って関所を越したりすること。
これを行おうとした者や手引きしたものは磔(はりつけ)などの刑に処されたのです。
関所とその目的
関所とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設です。
陸路にも海路にもありました。
陸路では、峠や河岸に多くありました。
主な関所は東海道の箱根関所や新居関所、中山道の碓氷関所や木曽福島関所、甲州街道の小仏関所、日光街道・奥州街道の房川渡中田関所など。幕末には46の関所があったそうです。
幕府は江戸への「入鉄砲出女」については特に厳しく取り締まりました。
「入鉄炮」は江戸に武器が持ち込まれることで、鉄砲手形を必須とし、荷物検査を含め、何段階ものチェックがありました。
「出女」は江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が領国に脱出すること。
これを防ぐために、女性は女手形の携帯を義務付けられ、旅の目的や行き先、女性の人相、素性なども吟味されました。
箱根の関は特に厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(ひとみおんな)が髪の毛や身体的特徴、ほくろや妊娠の有無まで検査をしました。
より簡単に入手できる男の手形を使う女性もいたので、女による男装の疑いがあれば、男にも同様の検査をしたそうです。
HOW TO 関所破り
しかし、それでも関所は破られるもの。
関の近くでは、関所破りを手伝って稼ごうとする者もいました。
1. 迂回路を通る
関所周辺の生活道路や山道を組み合わせて歩けば、関所を通らなくても通行は可能でした。
地元の百姓が小銭稼ぎに抜け道案内をしてくれました。
万が一見つかっても、道に迷ったと言えばよほど悪質でない限り、許してもらえたそうです。
2. 仇討ち承認証明
江戸時代の敵討ちは法的に認可されていました。
藩発行による敵討ちの許可証を入手できれば、関所はパスできたため、
中には許可証を偽造し、それらしい姿やフリで関所を通過する者もいたとか。
3. ワイロやコネ
関所の役人へのワイロも有効。
正当な通行手形を持つ女性でも、厳しい取り調べで裸にされるのを避けるため、袖の下を使ったそうです。
また、関所近くの宿屋の主人に心付けを渡し、宿屋の使用人になりすましてラクラクと関所を通過できたそうです。
支払った金は打ち合わせ済みの関所の役人にもきちんと還元されたそう。
4. 芸人特権を濫用
落語師、講釈師、義太夫師、太神楽などの芸人は、芸そのものが手形のようなものでした。
関所の役人を楽しませる芸を見せれば、通行可能だったとか。
5. お伊勢参りや湯治にかこつける
江戸幕府は伊勢神宮参拝や温泉湯治などを行う者には比較的寛容でした。
そのための幕府発行の「書替手形」があれば、身元確認済みということで関所を通過しやすかったそうです。
これを利用しない手はありません。
本当に捕まったら磔になる?
何かの事故で手形に不備があっても、粋な対応をしてくれる関所番はいたのです。
東側の門つまり江戸から来た女に「通せないから引き返せ」と言っておきながら、とぼけて西側の門を示して通してくれたこともあったそうです。
関所破りで捕まる原因は告げ口です。
袖の下を使ってうまく回避しなくてはいけません。
その他、宿帳の記帳内容が怪しい場合、手配書の人相と同じ場合に捕まりました。
関所破りが即刻磔(はりつけ)の刑に処されることは、幕府の「公事方御定書」に明記されています。
しかし、箱根で見つかった関所破りが磔になったのは250年間で6名だけ。
実際は、関を破る人は少なくなかったかもしれません。
江戸時代中後期は、商人の活躍と諸藩の特産品販売が盛り上がり、物流が盛んになると、諸国を分断する関所は邪魔になりました。
1869年(明治2年)に明治政府が廃止を決定して関所は完全になくなりました。