<出典:wikipedia>
『忠臣蔵』の赤穂浪士討ち入りをするきっかけとなった、江戸城松廊下での刃傷事件。
事件を起こしたのは、播磨赤穂藩の第三代藩主浅野長矩(あさのながのり/1667年~1701年)で、その官名から浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と呼ばれていました。
赤穂事件
『忠臣蔵』は、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目の一つです。
これは実際におきた赤穂事件が元になっています。
赤穂事件の始まりは、1701年に、赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城殿中松の廊下で、高家筆頭の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に何らかの理由で斬りつけたことでした。
殿中での刃傷事件の加害者・内匠頭は、即日切腹。
吉良はお咎めなしとなりました。
その成敗の結果を不服とした赤穂藩の家老・大石内蔵助をはじめとする47名の赤穂浪士たちは、吉良の首を取って敵討ちをした後、全員切腹しました。
なぜ内匠頭が斬りつけたのか、という謎
実は、内匠頭が刃傷に及んだ理由は未だ明白にはなっていません。
本人自身が取り調べに対して「遺恨有り」と言うのみで、説明をしなかったのです。
さまざまな理由が推測されていますが、内匠頭が吉良に賄賂を差し出さなかった説が有力です。
また、勅使饗応役にあった浅野家には資金が足りず、1200両かかるその費用を700両しか出さなかったことで饗応指南役であった吉良との関係が不和となった説もあります。
いずれも両者の関係が悪くなった上、吉良から辱めを受けた内匠頭が我慢の限界を超えて刃傷に至ったといわれています。
我慢の限界を超えた、ということではありますが、浅野内匠頭は生来短気な性格でした。
人に頭を下げることを好まない人物だったと記録に残っており、それが問題となった疑いもあります。
実は、刃傷事件の原因として、母方の血筋からの遺伝が挙げられています。
なぜなら、過去に内匠頭の母方の叔父が松の廊下の刃傷事件と非常によく似た事件を起こしていたからです。
内匠頭の叔父・内藤忠勝の刃傷事件
1680年。
第4代将軍・徳川家綱の法要の際に、芝増上寺の警備を命ぜられていたのが浅野内匠頭の叔父にあたる内藤忠勝(ないとうただかつ)でした。
普段から仲の悪かった永井尚長(ながいなおなが)が、忠勝よりも上席にあったのをいいことに、忠勝の要求を無視して警備の指示書を見せませんでした。
これに激昂した忠勝は刀を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、彼が転んだところを刺し殺しました。
この件で忠勝は切腹、お家断絶となりました。
忠勝の事件と、21年後に起きた江戸城松廊下での刃傷事件。
結末までよく似ていると思いませんか?
忠勝も内匠頭も癇癪持ちであったことが知られており、しかも内藤家は精神病の家系で、忠勝の兄も精神障害のために家督を継ぐのを辞退したと言われています。
やはり、浅野内匠頭の暴挙は、その血筋、遺伝のせいだったのでしょうか・・・?
浅野内匠頭に対する即日切腹、お家取りつぶしという厳しい処分は、その21年前の叔父の失敗について学ぼうとしなかった浅野家に対する罰を含んでいたとも言われます。
叔父の事件に非常に似た事件を再び起こしてしまった甥。
遺伝のせいだとする説もまんざら的外れではなさそうです。