学校で源平の歴史を学び、ふと考えたことはなかったでしょうか?
「平氏→平家」と言うのに、「源氏→源家(げんけ)」と言わないのか、と。
今回はそんな疑問を解決します!!
「氏」と「家」の意味の違い
「平」というのは、日本において皇族が臣籍降下するときに名乗る氏の一つです。
「平氏」とは、その臣下に下った平姓のすべての一族を指す言い方です。
一方、「平家」とは、多くの平氏の中の特定の一族だけを指す言い方です。
日本史上「平家」とは、平清盛一家だけを指します。
これと同じことが、皇族が臣籍降下した源氏にも当てはまります。
ところが、「源氏」に対して「源家」と聞くことはありませんね。
源氏は中央政界の権力争いの中で藤原氏に負け、保元・平治の乱(1156年・1160年)で平家に負けたために、一族が全国に散らばって土着しました。
そのため、平清盛一家のように中央に強力なファミリーが現れず、「源家」は生まれなかったのです。
平姓を名乗ることの正当性
平安時代に平氏が台頭したとはいっても、京都で貴族となった平氏は少数派。
大多数は全国に散って地方の領主となり、武士となっていきました。
その時に、平氏ばかりではややこしいので、それぞれ自分の領地の名前を「苗字」としました。
「北条」とか「三浦」一族もみんな本当は「平氏」で、「北条義時」も正式には「平義時」といいました。
一方、京都の貴族である平氏は、自分たちは本家だと思っているので、苗字を名乗らず、平姓のままで「平清盛」といった具合に名乗りました。
そして、平清盛の「家族」たちはみな京都で貴族をやっている「平家」だったのです。
「平家」とは、武士よりむしろ貴族の家柄、という感じです。
源平合戦は「源氏」Vs「平氏」ではなかった!?
源平合戦で、源頼朝の挙兵に従った関東武士の中に「平氏」は大勢いました。
もちろん「源氏」も「藤原氏」もいましたが、多くの平氏も従軍していたのです。
平氏が「源氏の大将」に従っているのは不思議に思えますが、それは、源平合戦というのが「源氏と平氏の戦い」だという思い込みがあるからです。
この戦いの本当の構図は「関東武士団Vs京の中央政府」でした。
関東武士団が、伊豆に流罪になっていた源氏の御曹司・源頼朝をトップに担いだために、たまたま「源氏の軍勢」と呼ばれ、ちょうど当時の京都政府のトップが平家だったので「源平の合戦」と言われただけです。
そのため、壇ノ浦の戦いで「平家」が滅びましたが、「平氏」は滅んでいませんでした。
そして、その後も全国で何万もの平氏が活躍しました。
「平家」は滅び、「平氏」は台頭
戦勝後、源頼朝は鎌倉殿として、武士たちのトップとなりました。
そのため、苗字を名乗らず、「源頼朝」のままです。
頼朝は正二位権大納言になりましたから、貴族でもありました。
ですから、頼朝の一族を「源家(げんけ)」といってもよかったかもしれません。
しかし、その後彼も彼の息子たちも亡くなり、頼朝の血筋は途絶えてしまいました。
一方、妻であった北条政子が幕府の中心人物となりました。
北条氏は「平氏」の一族であるため、平家が滅んで平氏が栄えたという面白い状況になったのです。