<出典:文化史>
二条河原の落書(らくしょ)は、『建武年間記(建武記)』に収録されている文書です。
88節にわたる七五調の文で、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺したものが収められています。
二条河原の落書は、その小気味よさとリズム、タイムリーな内容が、専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つです。
どんな落書だった?
落書とは,時事または人物を風刺・批判・あざけりを含んで書かれた匿名の文書のことです。
平安初期頃から登場し始めました。
1334年8月に、鴨川の二条河原(中京区二条大橋附近)に掲示されたといわれるのが、二条河原落書。
戯れ歌めいた長歌の形式をとるので落首(らくしゅ)とも言われます。
平安末期の流行歌謡・今様(いまよう)の形式を継承した、七五調・八五調を基本として88行で構成されます。
この前年に始まった後醍醐天皇による建武政権による世の中の混乱ぶりや、不安定な世相を、風刺たっぷりに描いています。
落書の内容
此頃(このごろ)都ニハヤル物 夜討(ようち) 強盗 謀(にせ)綸旨 召人(めしうど) 早馬 虚騒動(そらさわぎ) 生頸(なまくび) 還俗 自由(まま)出家 俄大名(にわかだいみょう) 迷者 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ) ・・・ ※意味 ・・・中略・・・ 御代(みよ)ニ生(うまれ)テサマサマノ ※意味 <全文:wikipedia> |
二条河原落書の始まりと締めは、上記の内容になっています。
政府の新政策が、従来の社会の制度や慣行を無視したこと、いい加減な坊主、恩賞目当てや身分の保証を求めて右往左往する武士の姿、成上がり者についてリズミカルに七五調で列記されています。
無方針の政策への不信を中心に、傍観者的且つ斜に構えた態度が見て取れます。
時代背景と批判の対象
足利尊氏や新田義貞,楠木正成らの武力によって鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(1288年~1339年)。
1333年には新政権を樹立し、建武の新政(天皇親政)を積極的に進めます。
しかし、それは武家政権が育んできた伝統と特権を無視するものでした。
しかも、大内裏の造営費用を武士に負担させようとし、天皇側近によるえこひいきや賄賂などが朝廷からの恩賞に影響するなど、武家への不公平さのために、幕府政治の再興をのぞむ者がしだいに増えてきていました。
落書が掲示された場所は、後醍醐天皇の政庁が所在した二条富小路に近い二条河原でした。
ただし、この落書は単なる「建武政権批判」ではありません。
その内容は、政府に向けられただけではなく、混乱期の中で右往左往する武士や民衆、彼らが創り出した新たな文化や風習までも批判していました。
作者は誰か、その目的は?
この落書中の言葉によると,作者は「京童」(きょうわらべ)。
当時の京都市民のことです。
しかし、そうは装ってはいますが、内容をよく読めば、必ずしも民衆の不満の代弁者ではありません。
中国の歴史書『書経(しょきょう)』や故事・説話集『説苑(ぜいえん)』を踏まえた言葉や今様の影響も濃く受けています。
漢詩や和歌に精通しているかなりの教養人の手によるものでしょう。
建武政権の論功行賞に不満を持つ下層の公家、僧、京童・・・。
批判精神を万人ウケする方法で多くの人にセンセーショナルに発表したこの落書。
新政権を批判して世の中を変えようとするよりは、話題になることそのものを快感とした知的集団から世の矛盾を突いた一矢のようにも見えます。
大げさに言うと「劇場型犯罪」といったような姿が想像できます。