鎌倉時代初期。
鎌倉の地で一途に婚約者を思い続けた女性がいました。
彼女は源頼朝と北条政子夫妻の長女にあたり、大姫と呼ばれました。
源頼朝の妻・北条政子や、木曾義仲の妾であった巴御前のように知名度があるわけではなく、また誰かの妻であったり、妾であったりするわけでもありません。
しかし、大姫は幼い頃に決められた婚約者を想い続けました。
今回はそんな無名の大姫にスポットを当ててみたいと思います。
源頼朝と北条雅子の長女として誕生
「大姫」というのは高貴な生まれである娘、そのうち長女を意味するものであるので、その女性の名前ではありません。
源頼朝の息女であった大姫は「一幡」であったともいわれていますが、高貴な身分であるほど、本名を明かさないため、現在ではその名前がわかる資料はありません。
平安時代後期。
北条政子は源頼朝との結婚を反対されていました。
父親にとって、伊豆で謹慎生活を送っている源頼朝との結婚を認めるわけにはいかなかったのです。
そこで、大雨の夜に北条政子は逃げ出し、源頼朝と結婚することとなりました。
1178年。
2人の間に大姫が誕生します。源頼朝が挙兵する2年前のことでした。
婚約者・木曾義高との今生の別れ
婚約相手が決まったのは、大姫が6歳のときでした。
源頼朝の息女であった大姫の婚約は、年齢からもわかるとおり政略結婚でした。
相手は木曾義高という男子。
源頼朝の従弟である木曾義仲の息子でした。
大姫が政略結婚させられたのには、平家討伐が関わっていました。
平家討伐の際、源頼朝と木曾義仲はそれぞれ挙兵しました。
そのため「源氏の棟梁はどっちなのか?」と疑問があがったのです。
次第に両者の対立がささやかれるようになり、状況を打開するために義高と大姫の婚約することになったのです。
木曾義高のことを、大姫は恋い慕うようになりました。
北条政子も木曾義高をとても気に入り、実際に婚儀の準備も進められていたといいます。
ですが、鎌倉での穏やかな生活は続きませんでした。
後白河法皇が源頼朝に木曾義仲を討つよう命令したのです。
そのため、木曾義高も追われることになってしまいました。
このことを知った大姫は、彼の逃亡を手助けしました。
脱走のために女御姿に変装した義孝を、侍女たちとともに屋敷から脱出させました。
さらに、その側近があたかも義高が屋敷内にいるように偽装もする念の入れようでした。
謎に包まれた大姫の死
婚約者を実父によって討たれた大姫は、ひどくふさぎ込むようになってしまいました。
その心の傷は10年という歳月が経とうとも癒されることはなく、日々義高の供養を欠かすことはありませんでした。
源頼朝も北条政子もお見合い話を持ちかけましたが、結婚するなら自害するという大姫に諦めるしかありませんでした。
大姫が婚約者のもとへと旅立ったのは20歳のときでした。
源頼朝と北条雅子とともに京都へ移っていた大姫は、突然体調を崩して亡くなってしまったのです。
このとき、大姫は後鳥羽天皇への輿入れが進められていたので、今度は妹である乙姫に白羽の矢が立ちます。
しかし乙姫も姉を追うように数カ月後に亡くなってしまいました。
その後、源頼朝自身も亡くなってしまった為、源氏の血を引く娘たちの輿入れは実現されませんでした。
もともと病に伏せがちだった大姫ですが、暗殺説も浮上しています。
暗殺説が浮かび上がったのは、健康だった乙姫が亡くなったこと。
乙姫は、突然の高熱によって危篤状態となってしまい、医者もさじを投げて亡くなっているのです。
仮に暗殺されたのだとすると、首謀者は九条兼実か土御門通親ではないかと考えられます。
源頼朝は娘を輿入れさせるために、かつての親友・九条兼実を失脚させ敵に回していました。
また、貴族・土御門通親は、源頼朝の娘の輿入れにより、外戚としてつかんだチャンスを失ってしまう可能性がありました。
ちなみに、暗殺説以外にも、輿入れについて知らされていなかった大姫にそのことが漏れてしまい、自ら命を絶ったという説もあります。