<出典:wikipedia>
1600年の関ヶ原の戦い。
敗れた石田三成は、京都・六条河原で打ち首となり、三条大橋のたもとにさらされた後、大徳寺三玄院に埋葬されました。
そんな彼の遺骨が見つかったのは、それから307年後の1907年。
大徳寺の墓地改葬の際に三成の墓から、頭蓋骨、大腿骨、上腕骨などの骨が発掘されたのです。
同時に1本の「小づか」も発見されました。
小づかとは小刀のことで、打ち首にあった人を埋葬する時に首と胴をつなぐのに使われたものです。
当時の京都大学解剖学研究室の足立太郎博士が、発見された破損のひどい頭骨を復元し、同時に、頭蓋骨の石膏模型を作りました。
目的は「復顔」。
石田三成の顔を現代によみがえらそうとしたのです。
しかしなんと石膏模型が展覧会中に行方不明、もしくは第二次世界大戦中の混乱でなくなってしまいました。(盗難ではないかとも言われています。)
不幸中の幸いは、頭蓋骨の計測値と写真などの資料が残っていたことでした。
復顔、三成の顔は・・・?
結局、復顔が行われたのは1976年のことでした。
三成の研究家である石田多加幸氏が、この調査資料を元科学警察研究所主任技官長の安周一氏のもとに持ち込み、三成の顔の復元を依頼しました。
警察の捜査で用いる復顔技術を応用して、ついに「石田三成の顔」が甦ったのです。
実は、1907年の三成の遺骨発掘当時、墓からは頭蓋骨だけではなく、体の骨である四肢骨も発見されていたので、三成の骨格から想像される体格もある程度判明していました。
その時の鑑定の結果も合わせて三成の容貌をまとめると以下のようになります。
・女性と間違うほど華奢な骨格で、腺病質(せんびょうしつ/小児の虚弱体質)だったと思われる体格
・顔は細長く、頭は前後にでた木槌頭
・鼻は高く、鼻筋の通った優男
・極端な反っ歯(そっぱ)
・試算によると身長は156cm
現代人からすると、なかなかショッキングな結果。
ただ、人類学者の意見としては、当時は長頭や反っ歯はよくあることで、156cmは当時の標準的身長とのこと。
つまり、三成は当時としては平均的な体型だったのです。
ただし、骨格が華奢だったため、三成は実際の体型より細く貧弱に見えた可能性はあるそうです。
史料と鑑定結果を付き合わせてみると・・・
『淡海古説』という江戸時代の書物に、三成の風貌が「やせ身にして色白く、透き通るが如し、目は大きく、まつげ甚だ黒し、声は女の如し」とあります。
鑑定結果もこのイメージに近いと言えるでしょう。
石田三成は、同じ豊臣秀吉の重臣であった福島正則や加藤清正といった武闘派の武将たちとは性格的にあまり合わなかったようです。
この鑑定結果から読み取れる華奢な彼の体つきを考えれば、たくましい秀吉家臣団の中において、色白でほっそりした彼はちょっと浮いていたのかもしれませんね。