鎌倉幕府の立役者・和田義盛!武闘派政治家がむかえた最期。

由比ガ浜の波音を打ち消すように、むせび泣く老いた男がいました。

鎌倉幕府の重鎮ともいうべき存在である和田義盛です。

そして、彼自身も息子たちを追って黄泉の国へと旅立ちました。

 

後世、和田塚と名づけられたこの場所では、和田合戦が繰り広げられ、たくさんの犠牲者が出ました。

和田合戦の首謀者が和田義盛。

和田義盛とはいったいどのような人物だったのでしょう?

源頼朝への忠義を貫いた源平合戦

和田義盛の叔母は、源頼朝の父親である義朝の側室でした。

また祖父の三浦義明は婚姻関係を理由に、源義朝の相模における勢力拡大を支えました。

 

平家討伐のために源頼朝が挙兵したときは、一族総出で出陣しました。

このとき、30代前半だった和田義盛も参戦。

緒戦では劣勢となり、祖父・三浦義明を失いますが、
源頼朝の姿を目にして「例え、身内が死んでしまったとしても、そのお姿を見ることができれば、これ以上のよろこびはありません」と忠義のほどをあらわにしたのです。

本拠地である鎌倉で体勢を立て直してからは、常陸国の佐竹秀義を生け捕りにしたり、芦屋浦の戦い、阿津賀志山の戦いで勝利したりするなど、目覚ましい活躍を遂げました。

こうして、和田義盛は、鎌倉幕府の入御儀式で、数多くの御家人の最前で源頼朝を向かい入れることができ、政治家への一歩を踏み出しました。

源頼朝亡き後の鎌倉幕府で活躍

源頼朝が上洛となれば先陣を賜り、右近衛大将の拝賀となれば隋兵に選ばれた和田義盛。

どれほど源頼朝に信頼されていたのかがうかがえます。

源頼朝が亡くなってからも、後継の源頼家のもと宿老となって、幕政における発言力を持ちました。

 

1203年。

鎌倉幕府内に抗争が起こりました。(比企能員の変)

第二代将軍・源頼家は正室の実家である比企氏を重用していました。
母親・政子の実家である北条氏は、当然ながら見過ごすことはできません。
一時的に源頼家が危篤となったのを好機とし、嫡男・一幡の領地を源実朝(頼家の弟)のものにしたのです。

こうなると、比企氏もだまってはいません。
北条時政を討つ計画を立てます。
しかし、これがバレてしまい、先に比企能員が討たれてしまいました。
その後、比企一族は小御所で立てこもるも取り囲まれてしまい、幼い一幡ともども一族は自害して滅亡しました。

病気から回復した頼家はこの話を聞き憤慨。
和田義盛のほか数名に北条氏討伐を命じます。
しかしこのことを、和田義盛が北条氏に密告したため、源頼家は失脚したうえに暗殺されました。

源頼朝が平家討伐のために挙兵したとき、幾多の苦難を北条氏とともに乗りこえた和田義盛にとって、北条氏を裏切ることはできなかったのかもしれません。

避けられなかった和田合戦

和田塚の地名の由来ともなるのが、和田合戦です。

発端は、大規模な謀反計画に和田一族の一部が関わっていたことにあります。

北条氏を快く思っていない関係者は数えきれないほどいました。

そのため、和田一族の中にも「第二代将軍・源頼家の遺児を擁立し北条一族を討伐する」という謀反に賛同する人間がいたのです。

賛同者には、和田義盛の息子・義直、義重、さらに甥にあたる胤長もいました。

このとき、執権・北条義時を説得して、どうにか息子ふたりが赦免されましたが、和田胤長(わだ たねなが)は陸奥国岩瀬郡に配流されました。

こうして和田一族の怒りが溜まります。

和田義盛もこのままでは北条義時によって和田家の立場も危うくなると判断し、自らが謀反のために立ち上がります。

 

三代将軍・源実朝には将軍家を恨んでの挙兵ではないこと、これまで和田一族によくしてくれたことを感謝しています。

ですが、いざ挙兵となったときに協力者であった三浦氏が裏切ったため、相模国にいる数多くの御家人が参加するも、和田一族は想像以上に厳しい立場に立たされます。

そして、由比ガ浜に退却せざるを得なくなってしまいました。

 

和田一族にも拠点である三浦半島から続々と応援が到着し、夜が明けるのを待って由比ガ浜で最終決戦となりました。

ですが、和田一族が逆賊と認定されてしまったため、投降する者も相次ぎました。

善戦した和田義盛でしたが、息子の義直が討たれたという知らせに泣き崩れました。

そして、この隙に討ち取られてしまいました。(実際には状況を悲観して自害したともいわれているようです)

 

由比ガ浜の程近い和田塚には、奮戦した和田一族の武者たちが葬られました。

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