京都の豪商である灰屋紹由(はいや じょうゆう)の跡目を継いだ紹益(はいや しょうえき)は、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)の縁戚にあたり、商売よりも風流を好んでいました。
紹益の随筆『にぎはひ草』は近世初期における随筆文学として評価されるほどです。
風流を好むように美しい女性も愛でた灰屋紹益は、島原遊郭にも出入りをしていました。
そして吉野太夫に恋情を持つようになりました。
この、灰屋紹益と吉野太夫の大恋愛は、現在でも島原でひっそりと語り継がれています。
はたして灰屋紹益とはどのような男であったのか。
灰屋紹益と吉野太夫の純愛物語をご紹介します。
灰屋紹益ってどんな人物?
島原遊郭は移転を繰り返すあわただしさから、島原の乱になぞらえられたともいわれています。
また遊郭でありながら文化サロンとしての機能も持ち合わせており、女性とたわむれることもできれば、最先端の文芸・芸術に触れることもできました。
豪商・灰屋紹益は島原遊郭に出入りしていました。
江戸時代初期、豪商・灰屋紹由の養子となった紹益ですが、実家は本阿弥光悦の縁戚にあたります。
そのためか、商売よりも文化・芸術に熱心でした。
紹益は身内の本阿弥光悦のみならず、和歌を鳥丸光広、俳諧を松永貞徳、茶の湯の千道安といった、そうそうたる知識人から指導を受けました。
さらに、後水尾天皇、八条宮智忠親王といった、朝廷トップクラスの人物とも親交があり、折につけては文化・芸術談義に花を咲かせていきました。
ちなみに、「わてもこんな人生送りたいわあ」と庶民男性から支持された『好色一代男』の主人公・世之介。
このモデルになったのが灰屋紹益といわれています。
作者の井原西鶴は同じ時代を生きており、大阪と京都を行き来していたため、有名人だった灰屋紹益のことを知っていたのかもしれません。
島原・吉野太夫との出会い
羽振りもよければ和歌にはじまり、俳諧、蹴鞠、茶の湯にいたるまで、あらゆる文芸・芸術に精通していた灰屋紹益は、文化サロンであった島原で知識人たちと交流し、それと同時に遊女たちとも遊んでいました。
そして吉野太夫に惚れ込みました。
当時22歳だった灰屋紹益ですが、娶っていた妻とはすでに死別しており、4歳年上の太夫を愛するようになったのです。
身請けをするための資金繰りをする灰屋紹益。
一方、関白・近衛信尋も身請けに名乗りをあげてきます。
これに勝った灰屋紹益は吉野太夫を身請けして、さらには正妻としてむかえました。
島原の女性が妻となることに、養父は猛反対しました。
そして勘当を言い渡しました。
ですが、偶然にも吉野太夫と知らずに親切にしてもらったことから、その人柄に好印象を持つようになり、最終的に勘当はなかったことになり、吉野太夫も紹益の妻として認められました。
幸せなな結婚生活が10年ほど続き・・・。
灰屋紹益を残して吉野太夫が病死してしまいます。
このときの吉野太夫を失った灰屋紹益の意気消沈ぶりはすさまじいものだったといいます。
灰屋紹益の純愛エピソード
都をば 花なき里に なしにけり
吉野は死出の 山にうつして
吉野太夫をしのんで詠みあげた灰屋紹益。
吉野太夫の遺灰をすべて骨壺におさめ・・・、
なんと骨壺の遺灰を毎日少量ずつ、酒に混ぜて飲んでいきます。
そして吉野太夫をしのびながら杯をあおっているうち、骨壺の中はからっぽになったといわれています。
紹益は吉野太夫のあとに三人目の妻をむかえています。
ですが、自分のすべてを投げうってまで身請けしようとした女性にはおよばないのではないでしょうか。
現在では随筆『にぎはひ草』で評価を得ている灰屋紹益ですが、地元・京都では吉野太夫との純愛で知られています。
もし、好色一代男の世之介のモデルであったとするなら、あまりにも教養があり、一途すぎるようにも思えてきます。