<出典:wikipedia>
甲斐の虎の異名を持つ戦国大名・武田信玄。
その母親・大井の方(大井夫人)は、大井信達の長女としてこの世に生を受けました。
そして、息子・信玄に熱心に教育をほどこしました。
甲斐の虎を育てた大井の方とは、一体どんな人物なのでしょうか?
“仲直り”のために政略結婚!
大井の方の父・大井信達は、当時の甲斐(現在の山梨県)では最も力を持っていました。
そのため、信玄の父・武田信虎は、大井氏との繋がりが欲しいと考えました。
「自分のところに嫁いでもらいたい」
信達の娘に何度も求婚した武田信虎でしたが、信達はそれを受け入れることはありませんでした。
そしてその後、両家は対立してしまいます。
戦いの結果、武田信虎が勝利すると、信達は信虎に従うことを決めました。
そして、その“仲直り”の証として、信虎が何度も頼み込んでいた結婚の申し込みを受け入れ、信達の娘・大井の方が信虎のもとに嫁ぐことになりました。
諏訪大明神のお告げ
信玄がまだお腹にいる時、武田氏は駿河(現在の静岡県)の今川氏に攻め込まれました。
福島正成率いる軍勢が迫る緊迫した状況で、大井の方は要害山城に避難し、そこで信玄を産むことになります。
信玄の出産について伝承があります。
信玄を出産する直前。
大井の方の夢に諏訪大明神の使いが現れて「信玄が生まれることで、武田が今川氏との戦いに勝つ」というお告げをしました。
お告げが本当にあったのかは分かりませんが、福島正成との戦いは武田氏の勝利となりました。
信玄への教育
当時、禅寺は“学び”の殿堂とされていて、知識豊かな僧は武将たちの先生をすることがありました。
大井の方は信玄のために、尾張(現在の愛知県)・瑞仙寺の岐秀元伯を招きます。
そして、信玄はこの元伯を自分の先生として、彼からたくさんのことを学びます。
兵法や儒学だけでなく、歌や書なども教えられました。
このおかげか信玄は和歌が得意で、多くの歌が残っています。
信玄に良き師をつけた大井の方ですが、彼女自身も熱心に信玄の教育に携わります。
信濃上田原の戦いで、信玄が村上義清に惨敗したときのこと。
敗北した信玄は20日ものあいだ撤退せずにいました。
これを聞いた大井の方は、信玄に使いを送って説得します。
信玄は、それでやっと撤退しました。
実は若い頃の信玄は、乱暴な振る舞いをすることがありました。
それを諭して言い聞かせたのも、大井の方だったのです。