<出典:しまなみ海道>
はじめに
大山祇神社に伝わる『大祝家記』に登場する鶴姫。
彼女の存在が知られるようになったのは昭和40年代で、
大祝家の末裔・三島安精氏が、『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』という小説を出版したことがきっかけでした。
今回は、神の加護を受けた彼女の生涯を見ていきましょう。
“明神の化身”と呼ばれた才女
鶴姫は、大三島(現在の愛知県)の大山祇神社の大祝職(大宮司)・大祝安用の娘とされています。
幼い頃から顔の整った美人で、はきはきした性格。
勉強もよくでき、連歌や琴などもこなす才女でした。
また、10歳以上も年が違う兄たちの武術の鍛錬にも加わり、成長と共に武術の才能を現していきました。
そしていつしか鶴姫は、“明神の化身”と呼ばれるほどになっていきます。
「我は三島大明神権化の者なり!」
さて、時は群雄割拠の戦国時代。
大祝家も大三島を守るために戦っていました。
鶴姫が16歳の1541年6月。
大内氏の水軍が、大三島に攻めてきます。
数百隻の大軍による猛攻で、次兄・安房が亡くなってしまいます。
知らせを聞いた鶴姫は、三島大明神に祈りを捧げると、薙刀を振るって敵陣に乗り込みます。
「我は三島大明神権化の者なり!」
鶴姫の声を聞いた味方は士気が上がり、大内軍を撃退することができました。
この後も、鶴姫は武勲を上げます。
しかし、1543年の大内氏との戦いで、大祝家はついに敗れてしまいます。
乙女の最期
1543年の6月。
大内氏による、三度目の大三島攻撃がはじまります。
この時、鶴姫には想いを寄せる男性がいました。
次兄・安房の次に陣代に任命された、越智安成という人です。
しかし、この戦いで安成は死んでしまい、大祝家も敗北。
長兄・安舎は大内氏との戦いを終わらせようと決意しますが、恋人を失った鶴姫は納得できず、残った戦力で夜襲を仕掛けます。
鶴姫は島の沖にいた大内軍を追い出すと、鶴姫は三島明神にお祈りをします。
それから一人で小舟を漕いで、安成が死んだ御手洗の沖に出て――――そのまま、帰ってくることはありませんでした。
辞世の句として、「我が恋は三島の浦のうつせ貝虚しくなりて名をぞ煩ふ」という歌を残して……。
この時、鶴姫はまだ18歳の少女だったといいます。