7000点もある黒田家の文化遺産。なかには日本一有名な印も。

<出典:トリニータ

黒田官兵衛を藩祖とし、黒田長政が初代藩主となった福岡藩。

そこには黒田家が所有していた7000点もの貴重な歴史的文化遺産がありました。

今回はその中からいくつかの名品をご紹介しましょう。

■名槍「日本号」

天下三名槍の一つに数えられる大身槍(おおみやり)

柄を含めた長さが321.5cmと大変長く、刃の長さが79.2cm、総重量が2.8kgとなっています。

刃の中央にの溝には優美な倶利伽羅龍の浮彫りがあり、その見事で力強い出来映えに感嘆した秀吉が「日本号」と名付けたといいます。

「日本号」は、1590年の小田原征伐で大きな武功を挙げた福島正則が秀吉から拝領した品でした。

黒田家家臣の母里田太兵衛(もりたへえ)が福島正則から酒で飲み取った槍として有名です。

1596年正月。

太兵衛は黒田長政の名代として福島正則の屋敷に年賀の挨拶に訪問。

酒宴で福島正則が「大盃の酒を全て飲めばこの槍を与える」というので全て飲み干し、太兵衛は「日本号」手に入れたのです。

酒は呑め呑め 呑むならば
日本一(ひのもといち)のこの槍を
呑み取るほどに 呑むならば
これぞ真の 黒田武士

この逸話が有名な『黒田節』(上記)になりました。

ちなみに「日本号」には敵の刃を受け止めた打ち込み疵が残っていることから、実戦に使用された可能性があります。

※ 大身槍 日本号【国宝】(室町時代)福岡市立博物館所蔵

■名刀 圧切長谷部

圧切長谷部(へしきりはせべ)は豊臣秀吉に仕えた天才軍師・黒田官兵衛(如水)が織田信長から直接拝領したとも、秀吉から官兵衛の実子・黒田長政に与えられたとも言われます。

「へしきり」という名前は、「圧しつけて切る」という意味。

あるとき、織田信長が、無礼を働いた観内という茶坊主を成敗しました。

そのとき、台所へ逃げて膳棚の下に隠れた観内を棚ごと「圧し切り」(刀身を押し当てて切ること)にして一刀両断したことからこの「へしきり」という名がついたと言われています。

※ 刀 名物圧切長谷部【国宝】(南北朝時代)福岡市立博物館所蔵

■太刀 日光一文字

「日光」の名称は、もと日光二荒山に奉納されていた太刀を北条早雲がもらい受けたという伝承によります。

代々北条家の家宝として伝えていたものを、1590年の小田原攻めのときに黒田官兵衛(如水)が豊臣秀吉と北条氏直(うじなお)との和睦に貢献した礼として、白い陣貝(じんがい/ほら貝)と史書『吾妻鏡』とともにこの太刀を譲り受け、以後黒田家の家宝となりました。

長さ67.8cmの太刀は豪壮で美しい姿をしており、よく鍛えられて華やかな刃文を持つことから、鎌倉時代中期の備前(びぜん/岡山)の福岡一文字派の名工の作といわれています。

※ 太刀 無銘一文字(日光一文字)【国宝】(鎌倉時代)福岡市立博物館所蔵

■金印 「漢委奴国王印」

学校の歴史教科書に登場する最も知られた国宝の一つ、おそらく日本一有名なハンコ、それがこの金印でしょう。

この金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。

その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されるまで黒田家の家宝として大事に保管されていました。

黄金でできた金印には、五つの漢字「漢委奴国王」が刻まれ、金印のつまみ部分は蛇の姿をしています。

中国の歴史書『後漢書』にも建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたという記述があり、その「印綬」こそ志賀島で見つかった金印だと考えられています。

※ 漢委奴国王印【国宝】福岡市立博物館所蔵

 

今ではほとんどが福岡市に寄贈されていますが、ほかにも黒田家には素晴らしい家宝の品々が伝わっていました。

さすが52万石大名の黒田家ですね。

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