時代劇で有名な水戸黄門こと徳川光圀。
光圀は徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主でした。
その彼が生きていた江戸時代から遡ること100年。
戦国から安土桃山時代にかけて織田信長が活躍しました。
自信家で頭脳明晰な戦の天才織田信長と、優しいイメージの黄門さま。
実は二人はとてもよく似ていました。
うつけ具合
若い頃の織田信長は、うつけ者と呼ばれていました。
信長は元服後も一向にそのうつけぶりが変わらず、あらゆる法や秩序を無視していました。
町中を歩く姿は、若武者というよりはただの不良。
半袴は虎やヒョウの皮をつないだもので、腰には火打ち石をいれる袋やひょうたん、朱色の鞘の太刀。
ぼさぼさの髪の毛を茶筅(ちゃせん)のようにして目立つ赤や黄緑の紐でしばり、衣服は片肌を出して着ていました。
また歩くときは、仲間の肩によりかかるようにして、栗や柿、瓜をかぶりつきながら歩いていたそうです。
少年・青年期の徳川光圀もうつけと呼ばれていました。
兄を差し置いて自分が水戸徳川家の当主にされてしまったことへの居心地の悪さと罪悪感からの反動でグレてしまったのです。
光圀は女物の着物をぞろりとはおり、襦袢をちらつかせて仲間の不良青年たちと群れ、荒々しい振る舞いをしながら町を闊歩しました。
恐喝、暴行だってしていますし、元服もしないうちから吉原などの遊郭通いも。
刀の試し切りのために人を斬ったことさえある、かなりのワルでした。
武芸に優れていた
問題児信長の普通でないところは、乗馬、弓、鉄砲、槍、鹿狩り、鷹狩りなど、武術という武術は何でも来いという武術万能の才能。
武将として必要な技量については申し分ありませんでした。
光圀は、背の高くて運動神経もよく、水泳もできたし腕力も抜群な上に性格も剛胆だったため、仲間の青年たちの間でも人気でした。
好奇心旺盛
信長は南蛮渡来の品々のビロードのマント、西洋帽子を愛用しました。
また、早くから火縄銃の性能とその利用価値を理解し、鉄砲部隊を編成。地図、時計、地球儀など目新しいものへの理解も熱心でした。
さらに、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが信長に謁見した際に連れていた、アフリカのモザンビーク出身の黒人の大男に興味を示し、彼を弥助と名付けて刀を与え、側近にしました。
一方、水戸光圀はチーズやギョウザなどを日本で最初に食べた人物とされ、オランダ製の靴下を使用、ワインを愛飲し、朝鮮人参やインコと取寄せたという新しいもの好き。
蝦夷地への探索にも積極的で、探索のために雇い入れた黒人二人を家臣としました。
また、明から亡命してきた儒学者を招聘するなど、偏見を持たずに新しいことへどんどん挑戦していく性格が表れています。
やっぱり似ている二人
信長は命を張った戦国武将、水戸光圀は水戸徳川藩で悠々自適に暮らしていた藩主。
全然違うじゃないか、という意見もあるでしょう。
しかし実は、水戸光圀の残した書簡に光圀のホンネとも取れるつぶやきがあります。
「武家に生まれても今の世は泰平で武名を挙げることもできない。ならば、書物でも編纂すれば後世に名が残るかも知れないし」
これは、『大日本史』という史書の編纂について触れたものです。
「どうせ武芸で有名になれない世の中なら、本で有名になってやろう」という魂胆ですね。
そしてその狙い通り、編纂された『大日本史』は貴重な史料となり、光圀の偉業として高く評価されています。
世が世なら、織田信長のような頭の切れる戦国武将になっていたかもしれない水戸光圀。
やっぱり、どこか似たところのある二人だったようです。