<出典:wikipedia>
1867年から翌年にかけて日本各地で起きた騒動「ええじゃないか」。
男も女も老いも若きも「ええじゃないか」と叫びながら通りを踊り歩く集団の狂乱です。
おかげ踊りとも呼ばれるこの騒動は、明治維新の直前という不安定な時代にあって、一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生したもの・・・と言われています。
しかし「ええじゃないか」騒動は、倒幕派の作戦の一つだったのではないか、という説があります。
実際、騒動が大発生した1867年は、徳川幕府最後の将軍慶喜が大政奉還をした年、つまり幕府最後の年でした。
「ええじゃないか」の時代背景
「ええじゃないか」が起きる以前から、世の中には不安の感情が蔓延していました。
天明以来の饑饉が相次ぎ、開国の結果として国内の伝統的な産業は大打撃をうけ、米価を中心とする物価の上昇で、民衆の生活は極度に苦しくなっていました。
「ええじゃないか」の前年1866年には、百姓一揆や打ち壊しが多発し、町民による幕政批判の俗謡の「ちょぼくれ節」などが流行していました。
そんななか、日本の各地で起こったこの「ええじゃないか」騒動。
これには、いくつかの共通点がありました。
・お札が降ってくる
・男が女装し、女が男装する者もいた
・老若男女が参加
・太鼓で「よいじゃないか、えいじゃないか」と歌いながら群れをなす
組織化された騒動だった?
騒動の中身は大体の手順が決まっていました。
まずお札類が降り、拾った人々がそれらを祀り、祝宴をします。
参加者は仮装し、歌って踊る無礼講的なイベントに発展。
最後には村役人たちが皆を鎮静し、また通常に戻るというパターンです。
これを見ると騒動とは、「秩序の中の無秩序」のようです。
また、イギリスの外交官アーネスト・サトウが大坂で目撃した騒動では、人々が真っ赤な着物で踊っていたそうです。
揃いの着物は意図をもってそうしたはずですし、そもそもお札が降ってくるのは、誰かが沢山のお札を用意していたということです。
騒動の地域と討幕派の藩の不一致
騒動の分布は江戸から北には及んでいません。
江戸から東海道を通り、名古屋、京、大坂、広島あたりがその中心です。
その他のエリアとしては、松本、丹後、そして四国の土佐の藩境の室戸あたりです。
このころ倒幕といえば薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)など西南日本の藩に多かったのですが、不思議なことに「ええじゃないか」はそれらのエリアを外して勃発しています(室戸は土佐藩の外れでした)。
幕政批判のこの運動に、討幕派の地域が全く関与していないことに、かえって作為を感じます。
「ええじゃないか」をこうやって利用した
幕臣・福地源一郎は、公用での移動中に狂乱のために人夫や駕篭を雇うことができずに苦労しました。
騒動が幕府の支配と交通・情報機能を至るところで麻痺させ、倒幕派がそれを利用したわけです。
土佐藩討幕派陸援隊幹部の田中光顕(みつあき)らは、勤皇浪士や激論家などと共に大坂で「ええじゃないか」の騒ぎに紛れて幕府の警備の間をかいくぐりました。
長州藩兵は尾道での「ええじゃないか」に参加して踊り、幕府の情報網をかいくぐって、西宮付近に上陸、のち入京して、鳥羽伏見の戦いで幕府軍と戦ったようです。
これら状況を考えれば、「ええじゃないか」が民衆の鬱憤晴らしと楽しいお祭り騒ぎであったと同時に、幕政末期に討幕派によって仕組まれた陽動作戦だったと考えられるのです。