「長州男児の腕前お目に懸け申す」功山寺で高杉晋作が挙兵!

1865年1月12日、降りしきる雪の中。

功山寺山門にたたずむ高杉晋作は、白く染まった石段を見下ろしていました。

『国を売り君をとらえて至らざるを無し、忠臣義に死すこれこのとき、天祥の高節成功の略、二人を学んで一人と作さんと欲す』
(国を売りながら自分の主君をとらえる者が許されている。忠臣が義のために死ぬべきは今だろう。文天祥と鄭成功、このふたりのようにありたい)

ここには、中国で忠臣と称される「文天祥」「鄭成功」のごとき活躍をしたいという、高杉晋作の確固たる決意がしたためられています。

 

周囲の賛同を得られないまま功山寺で決起した高杉晋作は、呼びかけに応じた同志が石段を駆け上がってくるのを待っていました。

明朝の厳しい冷え込みの中……

生死を共にする覚悟で伊藤俊輔が力士隊を率いて駆け付けます。

他にも、石川小五郎、前原一誠が率いる諸隊を加え、功山寺には80人ばかりが終結してきます。

今回は、この「功山寺挙兵」についてご紹介します。

功山寺挙兵の背景

長州藩は下関戦争においてイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国連合艦隊に完敗。

さらに第一次長州征伐という藩存続の危機的な状況から、藩政が大きく揺れていました。

「武装恭順」を掲げる正義派と「謝罪恭順」を掲げる俗論派の藩内抗争は苛烈さを増し、
正義派の井上馨は襲撃され重傷を負い、伊藤俊輔は藩外へ逃亡せざるを得なくなりました。

正義派を率いていた周布政之助も自決へ追い込まれてしまいました。

 

正義派の一角であった高杉晋作も九州へと逃れます。

福岡の平尾山荘に潜伏しながら、長州藩の動向を探りますが、歯がゆさばかりがつのっていきます。

俗論派が主導権を握ったことで、長州藩は幕府へと接近することになったのです。

絶望的な功山寺挙兵。誰もが死を覚悟

謝罪恭順のために俗論派の関係者が幕府に続々と捕らえられ、奇兵隊をはじめとした長州諸隊にも解散命令が下されます。

福岡に潜伏していた高杉晋作は、長州を救うためにクーデターを決意します。

 

町人に変装して帰還した高杉晋作は、長府に本拠を移していた長州諸隊のもとへ向かいます。

解散を迫られた長州の幹部たちも代官の暗殺計画などを企てていましたが、
高杉晋作は「それでは姑息なばかりか兵力の分散や脱走による自然解体を招きかねない」と批判します。

そして説得を試みますが、諸隊幹部は無謀なクーデターに賛同しません。

見切りをつけた高杉晋作は、功山寺で決起。

伊藤俊輔、石川小五郎、前原一誠が自隊を率いて駆け付け、およそ80人が集結します。

現状は死を覚悟するほど不利な状況です。

それでも、功山寺に滞在していた三条実美を前に「これよりは、長州男子の腕間をお目にかけ申すべし候」と出立前のあいさつをし、下関新地会所の襲撃に向かいます。

功山寺挙兵が成功!藩政を倒幕で統一!!

功山寺挙兵には賛同できないながらも、奇兵隊の絆は固く結ばれており、決起のおりには山形有朋をはじめとした幹部から武器弾薬なども提供されていました。

まずは、下関新地会所の襲撃。

空砲で脅しをかけたことで、無血のまま会所を占拠することに成功します。

このとき周辺住民に好意的に受け入れられ、120人ばかりの志願兵を皮切りに参加者は増えていきます。

さらに海軍局も無血で占拠し、軍艦三隻を手中に収めます。

 

この状況を見た長州諸隊も、賛同して現地に集結。

いっきに長州藩正規軍の本陣である正岸寺を襲撃します。

こうして、功山寺挙兵は成功し、高杉晋作によって長州藩の藩論は武備恭順にまとめられ、倒幕を推し進めていくことになったのです。

 

功山寺の石段をまっさきに駆け上がった伊藤俊輔は、明治維新後に初代内閣総理大臣となり、伊藤博文としてその名を残しました。

のちに伊藤博文は、「この私の人生で唯一誇れることがあるのなら、このときすぐさま高杉さんのもとへ駆け付けたことだろう」と、功山寺挙兵を振り返ったといいます。

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