巌流島に漕ぎつけた櫓(ろ)を木刀に、まさに飛び上がって振り下ろさんとする宮本武蔵。
1612年4月13日。
宮本武蔵は巌流島で、佐々木小次郎が大決闘をしたといわれています。
なかなか現れない宮本武蔵を待ち苛立っていた佐々木小次郎。
裸足で砂浜を歩いてくる宮本武蔵をみるなり、すかさず刀を抜き、鞘を投げ捨てます。
「小次郎敗れたり!」
宮本武蔵が「試合に勝つ者には刀をおさめる鞘があるが、敗れた者は刀を戻すことさえない」というとおり、振り下ろされた木刀によって佐々木小次郎は討たれたのでした。
巌流島の戦いはよく知られているエピソードですが、宮本武蔵がどのような人物だったのかを知っている人は少ないはずです。
そこで今回は、意外すぎる宮本武蔵の素顔に迫っていきます。
宮本武蔵が庭園をプロデュース?
当時、明石城の三の丸からは、立派な庭園を見渡すことができました。
庭園に欠かすことができない石を、わざわざ四国なり小豆島なりから取り寄せ、一年かけて築き上げたというのですから、どれだけ立派なものだったかしれません。
この庭園のプロデューサーが、宮本武蔵でした。
資料が散逸しているため断言するのは難しいですが、一説に宮本武蔵は播磨国の出身だといわれています。(現在の兵庫県にあたり、明石も領域に含まれている)
十代半ばだった宮本武蔵は、実父とともに関ケ原の戦いへ東軍として参加しました。
それから決闘に明け暮れるようになり、60数回におよぶすべての戦いに勝利したことから、当代随一の剣術家として知られるところになります。
その後、姫路藩主本田忠正のもとに客分として滞在するようになり、何かしらの理由で、つながりがある明石城の庭園造りにたずさわることになったとみられています。
明石城の庭園については、具体的には分かっていません。
ですが、明石城の周辺にある宮本武蔵が手がけた庭園を見る限り、どれもよくまとまった枯山水の様式になっており、宮本武蔵の芸術的な感性がうかがえます。
宮本武蔵はものすごく絵がうまかった
当時発表された画家ランキングには、狩野探幽、尾形光琳、丸山応挙など、美術史に綺羅星のごとくその名をのこす偉人たちがピックアップされていますが、その上位六位に剣豪・宮本武蔵がランクインしています。
しかも、丸山応挙や伊藤若冲などよりも上位となっています。
このことから、剣豪としてだけでなく、画家としても名前が知られていたと推測されます。
現在でも「枯木鳴鵙図」など、宮本武蔵による水墨画をみることができます。
当時のおもしろいエピソードがあります。
藩主から水墨画を頼まれたものの、納得するものが描けなかった宮本武蔵は、とりあえずこの日は寝ることにしました。
ところが、突然布団から起き上がると、おもむろに絵筆をとって素晴らしい一枚を仕上げました。
「自らの兵法を忘れ、藩主に臆してしまったがばかりに、うまく描くことができなかった・・・。本来は太刀をとってしまえば、身分の上下など関係ないのだ」と弟子に語っています。
剣豪として刀をとることも、画家として絵筆をとることも、宮本武蔵にとっては同じく兵法のうちであったのかもしれません。
宮本武蔵は作家だった!『五輪書』がベストセラー
著書である『五輪書』は宮本武蔵のベストセラーといっても過言ではありません。
現在では、翻訳されたものが海外でも販売されているほどです。
『五輪書』は「地・水・火・風・空」という5つの章から構成されていますが、これは中国の「陰陽五行説」やインドの「ヴァーストゥ・シャーストラ」にもとづくものであることから、宮本武蔵がとても高い教養を兼ね備えていた人物であったことがわかります。
『五輪書』は自伝としての側面もありますが、ここではその出自については詳しく触れられていません。
そのため、このような教養をどこで身に付けたのかは現在でも大きな謎です。
兵法書である『五輪書』では、剣豪としての経験、剣術について触れながらも、根本的な精神論にまで書かれています。
『五輪書』を執筆を終えた宮本武蔵は、剣のかわりに筆を置いて病死しました。
巌流島の戦いに代表されるように、現在でも剣豪として親しまれている宮本武蔵ですが、実は庭師・画家・作家という意外な素顔を持ち合わせていました。
その筆遣いからは繊細な一面が垣間見れるとともに、高い教養も持ち合わせていたことが伝わってきます。