<出典:wikipedia>
はじめに
足利尊氏は鎌倉幕府滅亡に大きく貢献し、室町幕府初代征夷大将軍になった人物。
実は、いわゆる戦国武将などとは一線を画する不思議なキャラクターの持ち主でした。
ここでは、彼の戦いではなく、その愛すべき性格に注目してみましょう。
友人 夢窓疎石による尊氏評
尊氏の友人である禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)は、尊氏の3つの魅力について歴史書『梅松論(ばいしょうろん)』に述べています。
“心が強く、命の危険にさらされる合戦でも顔には笑みをたたえ、死を恐れない”
戦場での尊氏は、矢が雨のように降る中、家臣が危ないから身を守るように促しても、笑って取り合わなかったそうです。
実は、尊氏は危機に直面すると微笑むクセがありました。
他にも戦いの最中に微笑む話しが記録されており、そのたびに近臣たちはその不思議な微笑を「例の笑みが」などと言っていたそうです。
“慈悲深く、他人を恨むことを知らず、仇敵さえ許して我が子のように接する”
斯波高経(しばたかつね)のように、その時々で尊氏の敵に回ったり味方になったりを繰り返すような者も、降伏すれば尊氏はそれを許容しました。
そして、味方陣営に二度、三度と迎え入れています。
そんな優しさと人を信じる一面があった人物でした。
“心が広く物を惜しまず、金銀、武具や馬さえ手に触れるに任せて与えてしまう”
当時、八朔(はっさく)と呼ばれる贈答し合う風習があり、尊氏のもとにも山のように贈り物が届けられましたが、彼は貰ったそばから次々人にあげてしまい、結局なに一つ彼の手元に残らなかったといいます。
戦場の恩賞も手柄を立てた家臣にぽんぽんと与えてしまい、既にある者に与えた所領をまた別の人物に与えるという失敗をするほどでした。
夢窓疎石がここに書いたことは、友人としてのひいきで書いたものではなく、他の逸話にも見られる、尊氏の性格をかなり正しく反映したものではないかと考えられています。
愛すべき性格の弊害
このように彼の性格は、愛すべきものでした。
しかし、あの時代に生きたリーダーとして、武将として相応しい性格、資質ではなかったかもしれません。
尊氏は勇敢というよりは、不思議なくらい命への執着が薄い男でした。
合戦で苦戦するとあっさり自害しようとするため、周囲を慌てさせることも一度ではありません。
命だけではなく、普通の大人なら考えられないようなところに執着がなかったのです。
気分次第であっさり出家してしまったり、親族や腹心の部下に対してもおもちゃに飽きた子供のように手のひらを返し、冷たくしたりする場合もありました。
敵への寛容さは、逆に武将としての甘さでもありました。
源頼朝のように決然と政治判断を下すようなところがなかった尊氏は、どこか詰めが甘く、いつ誰に裏切られるかわかりませんでした。
あっさり褒美を与える大盤振る舞いも、無邪気なようでありますが、無軌道で政治的な思慮に欠け、駆け引きなどのできないお人好しの性格の表れです。
裏表のない、少し子供っぽいところのある人物だったのかもしれません。
孤高の武将
足利尊氏は、人間的にとても愛すべき人物だったのでしょうが、彼自身の生まれ持った性格のせいで周囲を振り回し、振り回されて苦しみました。
政治のトップに立ちながら、彼はどうもそれを心から望んでいたわけでもなかったように見えることもあります。
一緒にいた仲間や家臣たちの中に、彼の本当の気持ちをわかってやれる人物がどれほどいたでしょうか。
そんな彼の孤独、心の闇をつぶやくような尊氏の歌で、この話を締めさせていただきます。
「よしあしと ひとをばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらん」
(皆、自分のことを好き勝手に言うけれど、俺の気持ちなど誰もわかっちゃいない)