<出典:wikipedia>
はじめに
幕末。
「人斬り半次郎」として怖れられた男がいました。
薩摩藩士の中村半次郎です。
雨粒が瓦屋根から地面に落ちるまで、3度抜刀し、三度鞘に納めることができた。
放り投げた薪が地面に落ちるまで、8回切りつけることができた。
このようなエピソードから、人並外れた剣術の腕前を持っていたことがうかがえます。
ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣の修練をするに勝る
和泉守兼定でどれだけの人を斬って「修練」をしたのかはわかりません。
しかし、京都市中では奉行所や新選組だけでなく、町人にいたるまでその名前を知っていたといいます。
ですが、中村半次郎は剣術以外にも得意なことがありました。
さつまいもを栽培することです。
「人斬り半次郎」が、さつまいもがきっかけで西郷隆盛に見出された、というエピソードまであるから驚きです。
いったい、中村半次郎とはどのような人物だったのでしょう。
明治維新後、桐野利秋と名乗るようになる中村半次郎をご紹介します。
さつまいもを栽培した青年期
現在の鹿児島市吉野町は、錦江湾沖から桜島を見ることができる穏やかな地域です。
中村半次郎はこの町で生まれ育ちました。
1838年。
薩摩藩下士・中村与右衛門(桐野兼秋)の次男として誕生。
下士という家格から暮らしぶりは裕福ではありませんでしたが、家族でつつましやかな生活を送っていたといいます。
中村半次郎が10歳になった頃。
父が徳之島へ流罪になったことで生活が厳しくなり、家計を支えていた兄が18歳で病死してからは、さつまいもを栽培したり、紙すきの手伝いをしたりして家族を養いました。
「吉野唐芋、紙漉武士」と罵られても、立木を相手に剣術の修練を続けていました。
示現流の基本こそ教わったことがある中村半次郎ですが、ほとんど我流で剣術の腕を上げたのです。
さつまいもがきっかけで西郷隆盛に見出される
さつまいもを抱えた中村半次郎が西郷隆盛を訪ねたのは、島津久光の上京を控えた1862年のこと。
島津久光の上洛に先駆け、どうにか護衛に取り立ててもらえないかと考えたのです。
半次郎は自分の畑で育った立派なさつまいも3本を手土産に、上洛の共に加えてほしいと必死に頼み込みます。
さつまいも3本を、西郷隆盛はよろこんで受け取りました。
「本人が苦労して育てたさつまいもには、誠意がこもっている。これ以上のみやげがあるものか」と、中村半次郎を取り立てたと伝わっています。
島津久光の護衛として上洛して以降、中村半次郎は西郷隆盛の右腕として活躍します。
明治維新後は桐野利秋と改名し、陸軍少将まで上り詰めました。
ですが、西郷隆盛が明治政府を辞職すると、中村半次郎も辞職して薩摩へ戻りました。
薩摩では西郷隆盛が設立した私学校で農作業の指導を行っていましたが、西南戦争が勃発すると同時に、前線に立って戦いました。
西南戦争で薩摩郡が追いつめられると、西郷隆盛の自刃を見届けてから敵陣へ踏み込み、被弾して亡くなっています。
知られざる中村半次郎の人間性
人斬りとしてのイメージが先行する中村半次郎ですが、実は人間性がよくわかる多くのエピソードが残されています。
家族を養うためにさつまいもを栽培し、紙をすいていた中村半次郎は、剣術の修行をするのでさえやっとのことで、学問も不得手でした。
ですが、学問がないことを卑屈に思うこともなく、わかるように教えてくれと頼むような人物でした。
西郷隆盛や大久保利通と同じように、金銭に対しては無頓着なところがあり、目の前の人が困っていれば、まとまった金子をためらいもなく渡すという一面もありました。
金銭的なことばかりでなく、西郷隆盛でさえ控えてくれと頼むほど、困っている人を見捨てられず、かくまうこともしょっちゅうでした。
また、人斬りとしてばかりでなく、「軍人」としても非常に優れていた中村半次郎でしたが、待機命令が出ているのにも関わらず、味方が窮地に陥っていると知るや、持ち場を離れて助けに向かってしまうようなところもありました。
禁門の変でも持ち場を離れていますが、獅子奮迅の活躍で大きく評価されています。
無作法者と思われがちですが、ある程度の教養や礼儀作法は持ち合わせており、会津戦争では城の受け渡しという重要な役割を任されました。
会津のために方々尽くしたことで、敵でありながらも好感を持たれていたようです。
人斬りのイメージからは意外かもしれませんが、中村半次郎はとても女性にモテたともいわれています。
そのうえおしゃれにも気を使うので、なおさら人気があったというのもうなずけます。
西南戦争で亡くなったときも、遺体からは香水の香りがしていたといわれています。
桜山の火山灰をかぶりながら、汗を流してさつまいもを育てていた青年は、人斬り半次郎と怖れられながらも、人情味があり多くの人に好かれている人物だったのです。