<出典:wikipedia>
はじめに
孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇女(内親王)――つまりお姫様です。
阿倍と名付けられたこのお姫様は、32歳で孝謙天皇となりますが……それには特別な理由がありました。
しかもその後、淳仁天皇に譲位したはずが、今度は称徳天皇としてまた天皇になります。
・阿倍内親王はどんな理由で天皇に?
・譲位したのに、どうしてまた天皇になったの?
これを知ったあなたの目には、彼女の人生はどう映るでしょうか?
女性初!皇太子に選ばれる
女性の天皇は孝謙天皇の前にも何人かいますが、彼女たちが天皇になったのには理由があります。
「天皇の后である皇后だった」もしくは、「次の天皇になる皇太子が、まだ小さかった場合に大きくなるまでの代わり」の場合。
このどちらかの理由で天皇になっていますが、阿部内親王はそのどちらでもない理由で孝謙天皇として即位します。
その理由が、彼女の弟の死です。
母親である光明皇后のバックには、藤原氏がいます。
光明皇后のおかげで権力を誇る藤原氏としては、その権力を守るために光明皇后の子どもに天皇になってもらわなくてはなりません。
そして、天皇になるためには「次期天皇ですよ」という立場・皇太子になる必要があります。
阿部内親王の弟がこの皇太子だったのですが、彼が亡くなってしまったので、藤原氏はさぁどうするか?となります。
聖武天皇には光明皇后の他にも奥さんがいます。
つまり、光明皇后の子ども以外が皇太子になる可能性が……。
そうなったら大変だ!と、藤原氏は女性の阿部内親王を皇太子にしました。
こうして女性初の皇太子となった阿部内親王は、この11年後の32歳の時、孝謙天皇として即位しました。
孝謙天皇として即位した安倍内親王ですが、実際に政治を行ったのは母・光明皇后とその甥・藤原仲麻呂(恵美押勝)でした。
母親の甥っ子ということは、孝謙天皇と仲麻呂はいとこ同士です。
この仲麻呂は、孝謙天皇が二度目の天皇・称徳天皇として即位することに、大きく関わります。
いとこ・仲麻呂と険悪に……
未婚だったので後継ぎがいない孝謙天皇を心配して、父・聖武天皇は遺言で「道祖王を皇太子にするように」と指名します。
しかし、聖武天皇の喪中に、この道祖王が女官と密通したと分かります。
これに怒った孝謙天皇は、「道祖王なんか皇太子にしない!」とやめさせます。
次に皇太子に選ばれたのが、大炊王という人です。
孝謙天皇にこの大炊王をプッシュしたのが、いとこ・仲麻呂でした。
10年が経った758年。
孝謙天皇は譲位して上皇になります。
そして大炊王が淳仁天皇として即位するのですが、仲麻呂が淳仁天皇のそばで権力を振るうようになると、孝謙上皇と仲麻呂の関係は悪くなっていき、孝謙上皇はやがて病気になってしまいました。
二度目の天皇になる
病気の治療のために呼ばれた僧・道鏡は、孝謙上皇の治療を一生懸命してくれました。
それから道鏡を寵愛するようになった孝謙上皇ですが、これによって仲麻呂・淳仁天皇と対立して――764年、仲麻呂が挙兵します(藤原仲麻呂の乱、または恵美押勝の乱)。
孝謙上皇は見事にこれを打ち破り、仲麻呂は死に、淳仁天皇もその地位から退くことになりました。
そうして、孝謙上皇は称徳天皇として、再び天皇となりました。
宇佐八幡宮神託事件
称徳天皇は、寵愛する道鏡を政治に参加させて、法王の称号も与えました。
ついには、天皇にしようということにまでなります。
宇佐八幡宮では、「道鏡を天皇にすれば、天下太平になる」というお告げまで出されます。
そこで、和気清麻呂が宇佐八幡宮にもう一度お告げを聞きに行くと――結果は逆でした。
これが769年に起きた宇佐八幡宮神託事件です。
この清麻呂の報告で、道鏡を天皇にすることは取り止めになりました。
孝謙(称徳)天皇の最期
称徳天皇はその一年後・770年に、53歳で亡くなります。
亡くなる直前まで、称徳天皇は道鏡と一緒に過ごしました。
最初の即位は、特殊な事情で孝謙天皇となりました。
しかし、二度目の即位で称徳天皇となったのは、病気の自分を支えてくれた道鏡への強い思いがあったからでしょう。
その道鏡も、彼女の冥福を祈りながら、二年後に亡くなりました。