<出典:wikipedia>
はじめに
土中に埋もれた人類の生活痕である遺跡や遺物、そんな埋蔵文化財を研究するのが「考古学」です。
日本考古学の始まりは明治10年(1877年)。
アメリカ人の動物学者・エドワード・シルヴェスター・モースが東京の「大森貝塚」を発見したことによるとされています。
以降、発掘によって土器や石器などの遺物を取り出して研究するという方法が発達してきました。
しかし、それ以前も、土中からしばしば不思議な形の焼き物や、石でできた矢尻、誰かが加工したとしか思えないような石製品などが見つかることが知られていました。
もちろん「考古学」という言葉がなかった当時の人たちには、奇妙なモノとして映ったようです。
そんな不思議なモノたちに魅了された人物がいました。
その名は木内石亭(きうちせきてい)。
モース博士をさかのぼること100年。
「日本考古学の先駆者」ともいえる江戸時代の科学者です。
今回は、そんな木内石亭についてご紹介したいと思います。
木内石亭とは
木内石亭(きうちせきてい)は享保9年(1725年)、近江国(現在の滋賀県)に生まれました。
現代でいうところの博物学である「本草学」を学び、やがて江戸に出て田村濫水(たむららんすい)という本草学者の門下に入ります。
同門には有名な平賀源内もおり、活発な研究活動を行っていました。
石亭は幼少の頃より変わった色や形、不思議な加工を施された石などに大変な興味を抱き、それらを収集することに情熱を傾けていました。
「奇石」と総称されていたそんな石の正体は、鉱物や化石であったり石器などの考古遺物であったりしたのですが、当時は一括して「奇妙な石」と捉えられていたようです。
石亭は全国を旅して歩き、およそ80年の生涯をかけて2000種以上もの奇石を収集しました。
その姿勢はコレクターというに留まらず、研究者としての探究心を感じさせる熱意にあふれています。
考古学・鉱物学などの先駆者
石亭が生きた時代は彼と同じように、奇石に興味をもつ人たちが増えてきたときでもあったようです。
そんな人々が集まってコレクションを見せ合ったり、情報交換をしたりする組織も生まれ、幕府による殖産興業振興の後押しもあり、本草学を拡大した「物産学」という学問ジャンルにも石亭は参画しています。
奇石を主に形状から分類した『雲根誌』などの著作もあり、体系的に奇石を扱った人物でもありました。
また、全国の収集家のネットワーク構築に尽力したり、奇石のうちには石器などの考古遺物が含まれ、それを人工のものと推測するなど、その活動は「日本考古学の先駆者」とも評されています。