<出典:ヒトサラ 卓袱料理>
はじめに
約280年の長きにわたった江戸時代。
その最末期を「幕末」と呼んでいます。
具体的には明治元年(1868年)以前の15年間のこととされており、その始まりが嘉永6年(1853年)の黒船来航です。
ペリー提督率いる黒船の艦隊が、最初に来航したのは1854年(安政元年)。
「日米和親条約」締結のために再来航し、武蔵国横浜村に初めて上陸しました。
日本国内では周知の通り、攘夷派と開国派の間で激しい対立があり、複雑で不安定な情勢が加速していきました。
しかし幕府の判断は開国和親路線であり、そこには知られざる幾多の政治的戦略があったと思われますが、なかでも重要な問題がありました。
それは「おもてなし」です。
「食卓外交」という言葉もあるように、海外使節をどのように饗応するかというのは大きな課題であったのです。
しかも、当時の幕府にはアメリカの使節をもてなすためのノウハウは皆無で、手探りの状態だったと考えられます。
では、ペリー提督一行を、いったいどのような料理でおもてなししたのでしょうか。
残された記録から、そのメニューの一端をのぞいてみましょう。
正式かつ超豪華な伝統料理でもてなした
横浜村に急造した応接所で行われた会談の合間に、日本側はペリー提督以下の将兵に食事を供しました。
担当したのは幕府御用達の会席料理茶屋「百川(ももかわ)」で、約300人分の膳を用意し、それでも足りずにさらに150名超の分を追加したといいます。
この百川は「卓袱料理(しっぽくりょうり)」を得意とする料亭として知られていました。
卓袱料理とは現在でも長崎県などで伝えられている多国籍風の料理で、日本料理・中国料理・オランダなどの欧風料理などがミックスされたものをテーブルで供するというものです。
日本料理ではほとんど使用しない豚肉などのメニューもあるため、西洋人の味覚にある程度配慮しようとしたとも考えられます。
とはいえ、幕府の威信にかけて用意された料理の数々は目を見張るものがあり、「本膳料理」と呼ばれる日本の正式な饗応料理として出されました。
合計100種類以上にものぼったという献立は山海の珍味をふんだんに使った贅沢なもので、魚介を中心にして鴨や豚などの肉類もとり入れられていました。
さらにデザートにあたる「菓子」にはオランダから伝わった「カステラ」を加えるなど、西洋人の文化を意識した痕跡も見受けられます。
当時のアメリカ人の口には合わなかった
現代の私たちからみても超豪華な内容ですが、ペリー艦隊の将兵たちの口には合わなかったようです。
刺身など、魚介を生食する文化がなかったこと、肉類がメインではなかったこと、一品ずつの量が少なかったことなどが不満点として記されています。
しかし、給仕と食事への心配りには大変な感銘を受けたようで、礼儀正しく優雅な所作には皆が目を見張ったと伝えられています。