<出典:wikipedia>
はじめに
1104年.
源頼政は源仲政の子として生まれました。
頼政は1156年に起きた保元の乱で後白河天皇の軍勢に加わり、1159年の平治の乱では平家の軍勢の一員として戦います。
平治の乱で源義朝が脱落したことで源氏勢力が衰えていた中、頼政は源氏を代表した出世頭となります。
そんな頼政の働きも影響して、この後、鎌倉時代へとつながっていきます。
保元の乱で勝者側となった頼政
1156年。
院政で権勢を誇っていた鳥羽法皇が亡くなると、戦が開始。
鳥羽法皇と皇位継承権について対立していた崇徳上皇は、武士を集めます。
対する後白河天皇も、武士を集めます。
有力な武将を集めることに成功した後白河天皇は、見事に勝利します。
このとき集められた有力武将の中でも、特に有力だったのが、平清盛、源頼朝の父・義朝、そして源頼政でした。
平治の乱でも頼政は勝者側に!!
保元の乱で勝者となった天皇方の武士たちですが、今度は上皇となった後白河天皇の近臣間の対立で、平治の乱が起こります。
保元の乱では共に戦った源義朝と平清盛は、この戦いで対立。
頼政は平清盛と共に戦い勝利します。
この戦いで敗れた源氏勢力は衰えますが、勝者側で戦った頼政は源氏を代表する出世頭となっていきます。
頼政の挙兵が決定!以仁王の令旨が下る。
平治の乱の後。
平氏一族はどんどん出世していき、その勢いは後白河法皇を幽閉するほどでした。
しかし、権勢を誇った平氏栄華の時は、長くは続きませんでした。
平氏政権は地方での地盤がしっかりしておらず、反平氏勢力が状況を覆すタイミングを今か今かと狙っていたのです。
1180年の5月。
以仁王は頼政の勧誘に成功したことで、平氏追討の令旨を下し、地方武士たちが立ち上がります。
頼政が挙兵を決めた理由については諸説ありますが、『平家物語』では、
「頼政の嫡男・仲綱と、清盛の三男・平宗盛の馬をめぐったいざこざがあり、ひどい侮辱を受けた」と描かれています。
6年にわたる治承・寿永の内乱
以仁王と頼政は寺社を味方につけて、平氏打倒に臨みます。
しかし、頼政は宇治の平等院で自害(宇治合戦)することになり、以仁王も奈良に向かう途中で討ち取られてしまいます。
以仁王が討ち取られた後も、各地で武士たちが次々と立ち上がります。
こうして治承・寿永の内乱が6年も続き、結局、源頼朝が戦いを制します。
そして、戦いを制した頼朝は鎌倉幕府を開き、武士の時代がはじまりました。
頼朝は保元の乱で父親の義朝が敗北した時に、清盛によって伊豆に流されていました。
そんな頼朝の挙兵のきっかけは、以仁王の令旨でした。
頼政が平氏打倒のために立ち上がることがなかったのなら、以仁王の令旨もなく、鎌倉幕府は成り立たなかったのかもしれません。