<出典:wikipedia>
はじめに
源義仲(木曽義仲)の人生は、人生は波乱に満ちていました。
1154年。
源義賢の息子として誕生。
生まれた翌年に、父である義賢が大蔵合戦で敗死し、信濃(現在の長野県)の中原兼遠に保護され、信濃の木曽谷の木曽山下で成長します。
義仲が27歳の1180年に、以仁王の令旨が下されます。
ここから始まる動乱に身を投じた義仲は、源頼朝、平氏と全国を三分する大人物となっていきます。
義仲の挙兵
1180年。
以仁王の令旨が下されると、各地で武士たちが立ち上がり始め、治承・寿永の内乱が始まります。
義仲の最初の戦いは、市原合戦。
平氏の家人・笠原頼直との戦いです。
当時、義仲には、養父・中原兼遠の息子たちや、亡き父・義賢の郎党(従者)など、支持勢力がありました。
その勢力は、信濃、上野(現在の群馬県)に広がっており、頼朝と並べるほど。
これを理由に笠原頼直は義仲を捕らえるため、軍勢を動かしたのです。
市原合戦では、大群を引き連れた義仲の登場に、笠原勢が退却。
横田河原の戦いに続きます。
この戦いから近江粟津で敗死するまで、義仲は負けなしの将軍となりました。
以仁王の遺児・北陸宮
1182年。
以仁王の遺児・北陸宮が義仲を頼って南都を出奔します。
義仲は北陸宮を保護。
これによって義仲は、以仁王と源頼政の遺志を継ぐ存在として、皇位継承戦争へと加わることになります。
安徳天皇を擁する平氏と、後鳥羽天皇を即位させたい後白河院、そして北陸宮を奉じて戦ってきた義仲。
義仲が平氏を破り入京すると、事態はますます混迷していきます。
京都での義仲
篠原合戦に勝利し、義仲が京都を包囲すると、平氏一門は京都に留まることを諦め、福原へ退きます。
1183年7月。
入京した義仲に待っていたのは、後白河院との対立でした。
後白河院は、皇位継承について特別な主張のない源頼朝と手を組むことにします。
こうして、全国は西に平氏、東に頼朝、都に義仲と三分し、「三国史の如し」と表される情勢となります。
そんな中、平氏政権時からの都の食糧危機に加え、義仲の軍勢の乱れによる都の治安の悪化が起こります。
こうして義仲は人心を失ってしまいました。
1184年。
義仲は征夷大将軍に任ぜられますが、もはや後白河院との対立はどうにもならず、頼朝との対決を避けられなくなります。
そして、頼朝から命令を受けた源範頼、源義経の上洛軍が、1月20日、宇治と瀬田から京都へと攻め込みました。
近江粟津での最期
人心を失っていた義仲に従う兵はいなくなってしまい、宇治川での戦いで、義仲は敗走を余儀なくされます。
義仲は今井兼平を始めとする数名の部下と落ち延びますが、近江(滋賀県)の粟津にて敗死します。
最後まで義仲のもとに残った武士の中心は、挙兵から義仲を支え続けた信濃・上野の武士でした。
義仲の最期を見届けた今井兼平は、太刀を加えたまま自ら落馬し、自害しました。
ある人たちにとっては粗暴な田舎者だったとしても、また別の人たちにとっては、義仲はカリスマだったのでしょう。