統帥権干犯問題を盾に政府の言うことを聞かなくなってしまった軍部。
この下剋上の雰囲気が下っ端の若い将校たちにも伝染していきます。
そして起こったのが、満州事変。
南満州鉄道が爆破されたのです。
1931年。
爆破したのは関東軍の若い将校。
周囲の状況から独断で事件を引き起こしました。
当時、中国では排日運動が激化しており、日本人居留民が危険にさらされていました。
しかし、協調外交を重んじる幣原は強硬手段に訴えることはありませんでした。
また、五ヶ年計画を成功させたソ連は、満州付近に大軍を終結。
ソ連との軍事力の差はどんどん広がっていました。
このような状況を何とかしようとして計画されたのが、南満州鉄道爆破だったのです。
満州事変は侵略のためではなかった
よく間違えられますが、南満州爆破自体は若い将校の暴走でしたが、そのあとの軍事行動自体は国際法上、何の問題もありませんでした。
実際に、国際連盟から派遣されたリットン調査団も、報告書で「日本の侵略だと簡単には言えない」という結論を書いています。
そもそも日露戦争で結んだポーツマス条約で、日本はロシアから南満州における権益を譲り受けています。
しかも、シナ兵や匪賊に襲われて殺される日本人が何人もいたので、それを守るために実力行使したのであって、外交上非道な行為ではありませんでした。
さらに、当時は世界大恐慌のせいで日本には失業者が溢れていました。
しかし、新天地として期待されていたアメリカは日本人の移民を拒否。
そのため、世論は満州に景気回復の糸口を求めていました。
こうして起きた満州事変ですが、その後、日本政府は国際連盟で事態の説明を求められます。
しかし、日本国内の複雑な状況と満州にいた軍隊が勝手にやったことだということを分かってもらえるはずもなく、各国は「日本は二重政府だ!!」と非難します。
こうして、外交の優等生だった日本の信用は地に落ちてしまいます。