1904年。
日本とロシアの戦争がはじまり、この結果が世界の度肝を抜く事件となります。
出口戦略を考えて戦争した日本
当時、世界最強といわれていたロシア軍。
日本政府はロシアに完勝できるとは考えていませんでした。
そこで、戦争を始める前に、「少しでも日本が優勢になれば、ただちにロシアと講和を結び、できるだけ有利な条件で戦争を終えよう」と考えていました。
講和の仲介は、中立的な立場にあったアメリカに依頼。
開戦を決意すると同時に和平のための特使を送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導きます。
このあたり、「いつ、どのように戦争を終わらせるか」ということを考えずに戦争を始めた昭和の政府や軍部と雲泥の差がありました。
勝敗を左右した外交戦略
当時の政府は諜報活動や謀略活動にも力を注ぎました。
中でも最大の効果をもたらしたのが、明石元二郎大佐の「ロシア革命勢力の援助」でした。
赤石はヨーロッパ各地に亡命している革命家たちを資金面で援助。
ロシアにおける反政府暴動や争議を扇動します。
赤石の活動によりロシア政府は戦争に専念できなくなり、その働きは「数個師団に匹敵した」とも言われます。
こうして、高度な外交戦略もあって日本はロシアとの戦争に勝利します。
日本がロシアに勝った衝撃
日露戦争の結果は、たんに日本がロシアに勝ったというだけの戦争ではありません。
有色人種の国家が、最強の白人国家を倒したという大事件だったのです。
もし、日露戦争がなかったら・・・。
あるいは日露戦争に日本が敗けていたら。
白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、今日でも世界は植民地と人種差別に満ちていたでしょう。
日本がロシアに勝ったのを見て、ほかの有色人種にも希望が生まれ、植民地での民族運動や独立運動が盛んになったのです。