「三国干渉」のあとの中国(清)は、西洋諸国から領土を好きなように食い荒らされてしまいます。
そのため国内では白人排斥の感情が高まり、義和団(ぎわだん)という宗教集団ができます。
義和団は「中国を助け西洋を滅ぼす」とか、「天に代わって正義を実現する」などをスローガンに勢力を拡大。
山東省で起きた反乱は中国全体に広がり、北京を制圧。
公使館区域を包囲してしまいます。
このような事態に、中国政府は傍観するのみで義和団を排除しようとしません。
それどころか、光緒帝(こうしょてい)これをきっかけに諸外国と闘うという命令まででました。
こうして、義和団の暴動という内乱は、一転して対外戦争に移ります。
日本軍の奮闘
中国の政策に、西洋諸国は驚愕。
このままでは、公使館の人々や居留民が皆殺しになるのは目に見えています。
しかし、ヨーロッパから援軍を派遣するのは間に合いません。
そこで、欧米の国々は日本が援軍を送ることを望みます。
それに対して日本政府は国際社会からの非難を恐れて、慎重な態度をとります。
少しして、欧州各国の意見を代表する形でイギリス政府から正式な申し入れがあります。
これに承諾した日本は、中国への進軍を開始。
日本軍は天津城を列国の軍とともに陥落させますが、十万人の中国軍に阻まれてなかなか北京に近づけません。
日本はさらに援軍を送り、欧米との連合軍との先頭に立って奮闘し、ようやく北京も陥落します。
日本軍の規律正しさ
北清戦争での日本軍の規律正しさは、欧米列国を感嘆させます。
北京でも上海でも、連合軍は大規模な略奪を行います。
しかし、日本軍だけは略奪を行わず任務終了後ただちに帰還。
公使館員を中心に作られた日本義勇軍も柴五郎の指揮のもとで勇敢な戦いぶりを見せました。
日本人の勇気、信頼性、明朗さ、そして日本軍の模範的行動を見た列国は、日本を「同盟相手として信じるに値する国」だという親日感情を抱きます。
そしてこの評価が、のちにイギリスとの同盟を結ぶ要因にもなりました。