室町時代|1560年 桶狭間の戦い

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織田信長は父の時代から今川義元と国境をめぐって争っていました。

1560年。

今川義元が満を持して2万の大軍を動員。尾張に攻め込みます。

こうして、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)がはじまります。

 

今川軍2万に対して、織田軍2千

圧倒的な戦力を前に、織田側はなんども会議を開きます。

しかし、有効な案は見いだせず、織田信長も黙ったまま。

武将たちは皆、敗戦を覚悟しました。

織田信長がついに頭角を現す

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ところが、織田の丸根砦と鷲津砦が落ちたと聞くと、信長が動き出します。

 

人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり。

ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきか

 

と歌うと、兵を率いて飛び出します。

約2千人で熱田神宮に集まると戦勝祈願をし、中島砦から桶狭間に打って出ようとします。

中島砦から桶狭間までの道は両側が深田のため、一騎ずつしか進むことができません。

しかも、桶狭間山にいる今川方から、軍勢の少なさも丸見えになります。

そのため部下たちは必至で反対。

しかし、信長は作戦を強行します。

 

信長の考えは以下のようなものでした。

・敵から丸見えということは、それだけ敵に近づいたということ
・桶狭間までは4キロ、馬なら十数分で行ける距離
・戦場で2千人が2万人の中で戦えば100%敗ける
・敵がひも状に伸びたところを襲えば優位に戦える
・今川の軍勢が織田軍の攻撃を知って引き返しても、十数分では戻ってこれない

 

このような理由から、信長は作戦を強行し、見事今川義元を打ち取ります。

 

信長のさらに凄いのが、敵がいつどこにいるか伝えた野武士に一番恩賞を与えたことです。

通常は大名を打ち取った毛利新助や服部小平太に恩賞を多く与えますが、信長はこの時代で珍しく情報の価値を一番に考えていたのです。

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