室町時代|1467年 応仁の乱が起こる

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南北朝が統一されて幕府に権力が集中すると、足利幕府は強大な権力を握るようになります。

ところが、1441年に足利義教(よしのり)が暗殺されると、義勝(9歳)、義政(8歳)と幼少の将軍が2代続きます。

さらに、幕府を支えていた功臣たちも相次いで亡くなり、幕府の基盤が揺らぎ始めます。

 

8代目将軍になった足利義政と、その正室である日野富子とのあいだには子供がおらず、僧侶になっていた弟の義尋を俗世にもどし、次期将軍として養子に迎えます。

ところが、その翌年。

富子に男の子・義尚(よしひさ)が生まれます。

こうして、家督相続問題が発生すると、斯波家(しばけ)・細川家・畠山家が絡んで大きな争いになります。

三家の争いでは次第に細川家の力が突出してきますが、一方で侍所の長官を務めた家柄の山名家も台頭。

義尋には細川勝元がついていたため、自分の子を将軍にしたいと願った富子は山名家を頼ります。

こうして、細川家をバックに控えた義尋と、山名家をバックに控えた足利義尚という構図が出来上がります。

時の権力者であった足利義政は意志が弱かったため、欲の強い日野富子・今参局(いままいりのつぼね)・烏丸資任(からすますけとう)・有馬持家の側近たちに振り回され、政治が大きく乱れます。

 

さまざまな人の欲と思惑で、場当たり的な政策が多くなると幕府の統制力が弱まり、細川山名の対立が全国の大名に広がります。

こうして1467年に応仁の乱が発生。

11年に渡って争いが続きます。

 

ちなみに日本の家系は皇室と一部の公家以外は、応仁の乱以前にまでさかのぼることができません。

源氏とか平氏とか名乗る大名は多いですが、実は応仁の乱を境にほとんどがそれ以前と切り離され、勝手に○○の子孫と名乗るようになっただけです。

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